前回は『青春の影』について書いた。
https://alabanda.hatenablog.com/entry/2023/11/09/141445
1974年に発表された『青春の影』、そして5年後にあたる1979年に発表された『Wake Up』。この2作品は、チューリップ、そしてソロ、それぞれの代表作とみなされる事が多い上に、どちらも結婚、より詳しく言えば、結婚を機にした子供から大人への通過儀礼的な移行を扱った作品と考えられる。
『青春の影』が、子供としての終わりと、大人としての始まりを描きながら、やや前者に焦点が当てられ、その悲しみが強調されていたのに対して、『Wake Up』では、終わりの悲しみと、始まりの喜びがバランスよく配され、より円熟した視点を感じさせる。
さらに、「家」「道」「年老いたひと」「汽車」「戻れない」「靴」「今」など、財津作品にしばしば登場するモチーフが繰り返され、ある種の集大成的な作品と言えるであろう。
- 『Wake Up』におこる4つの変化
- 「あなたが生まれた家」から「あなたが選んだあの人」へ
- 「学び舎への道」から「嫁ぐ道」へ
- "お辞儀に値しない存在"から"お辞儀に値する存在"へ
- 財津作品における汽車/電車に乗ること
- 「磨かれた革靴」から「洗いざらしのズック」へ
- 「今 愛がつきぬける」の「今」とは
- 財津作品における「今」の重要性
- 『今日と明日の間に』
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『Wake Up』におこる4つの変化
『Wake Up』には、対照的なものへの移行が4つ描かれている。
「あなたが生まれた家」→「あなたが選んだあの人」
「学び舎への道」→「嫁ぐ道」
お辞儀に値しない存在→お辞儀に値する存在
「磨かれた革靴」→「洗いざらしのズック」
これを一つずつ見ていきたい。
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「あなたが生まれた家」から「あなたが選んだあの人」へ
この作品の主題は、もうこれで言い尽くされていると言えるかもしれない。『Wake Up』は
「涙を拭いたら行きなさい あなたが生まれた家をうしろに」
と始まり
「そんな心で愛してごらん あなたが選んだあの人を」
と終わる。
この「あなたが○○」で共通する言葉を始まりと終わりという対極に配置することで、このふたつのものが、正反対の性質であることを表現している。なぜ正反対なのか?それはこれが、子供と大人の、それぞれの象徴だから、と考えられる。
「あなたが生まれた家」は今日までの、子供としての日々の象徴
「あなたが選んだあの人」は今日からの、大人としての日々の象徴
この作品全体が、子供の象徴から出発し大人の象徴へとたどり着く構成になっている。
さらに、『青春の影』の回で触れたように、「あなたが生まれた家」の"内部から外部への移行"が、子供から大人への旅立ちになり、その際に"涙を断ち切る"振る舞いが描かれている点で、『青春の影』の「君」と共通する。『Wake Up』もまた、子供から大人への通過儀礼を扱った作品である。
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「学び舎への道」から「嫁ぐ道」へ
「白い吐息はずませて通ってた 学び舎への道 今日は嫁ぐ道」
「学び舎への道」から「嫁ぐ道」へ。これはそのまま、子供時代に学校へ通っていた道が、大人になる今日は嫁ぐ道に変わるという変化で、子供→大人への移行を象徴的に表現している。
『青春の影』について書いた第一回で触れたが、財津作品には道を現在と過去の二重化して、時の経過を表現したものがある。
「あの海辺のみち いまは車のみち」(『夕陽を追いかけて』)
ここでは、時の経過による喪失感が全面に出ているが、『Wake Up』では、ノスタルジーとともに新しい始まりを感じさせる。
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"お辞儀に値しない存在"から"お辞儀に値する存在"へ
「朝もやけむった 駅のホーム じっと見送る 年老いた人 動き出した 汽車にむかい その人は 娘に初めて おじぎをした ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」
『Wake Up』で、とりわけ印象深い部分だ。旅立つ娘に対して老いた親が初めてお辞儀をする。これにはふたつの理由が考えられる。1つ目は娘が自分と対等な大人になったため、2つ目はよその家の人間になったため、である。
親からすれば、今までの娘との関係は、大人(自分)対子供(娘)であり、下の立場である娘にお辞儀などしなかった。しかし、結婚し新しい人生に踏み出す娘はもう子供ではなくなる。そこで自分と娘は、大人(自分)対大人(娘)というふうに対等な関係になる。さらに、身内からよその家の人間になる。象徴的に「あなたが生まれた家」に属していた子供ではなく、「あなたが選んだあの人」と生活を共にする大人へと変わるため、娘にお辞儀をする。
そして、娘の立場からすれば、親から対等な大人として扱われた瞬間は、決定的に子供ではなくなった事を意味する。だからこそ「ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」のである。
また、ここで「動き出した 汽車にむかい その人は 娘に初めて おじぎをした」と、汽車を"動き出させて"いるのだが、これはそのあとに来る「もどれない」を強調するためであろう。
出発前の汽車であれば、汽車に一度乗り込んだとしても、ホームにいる親の方に戻ることができる。しかし、汽車が出発してしまえば、汽車から降りて駅のホームにいる親のもとへ戻ることは出来なくなる。
つまりここで"戻れなさ"は二重になっている。汽車が出発したため、"汽車から降りてホームにいる親のもとに戻ることが出来ない"という意味と、親からお辞儀され大人として扱われたために、"守って貰える子供と言う立場に戻ることは出来ない"という意味と。
そして大人側に渡ったら、もう子供側に戻ることは出来ない。何かあったら戻ればいい、「生まれた家」の方へ帰ればいい、と考えていれば、それはいつまでも大人になりきれない事になる。
そのような、ある種の甘えを断ち切らせるためにも、親は娘に初めてお辞儀をしたのではないだろうか。
お辞儀という他人行儀な振る舞いに出たことは、娘をお辞儀に値する対等な大人として見做すと同時に、今までの守られていた立場、子供の気持ちのままでいてはいけないと言う覚悟を促す、静かな突き放しとも言える行為に思われる。
この旅立つ人間の"戻ってはいけない覚悟"は、『夕陽を追いかけて』にも見られる。
「もどっちゃだめと 自分に言った 切り捨てたはずの ふるさとだから」(『夕陽を追いかけて』)
次回のブログで取り上げるが、「戻れない」という言葉は、初期から現在にかけて財津作品を貫く最重要ワードのひとつだが、それが最も効果的に表現されたのが『Wake Up』かもしれない。"戻れなさ"という抽象的な感覚を、汽車の出発、親からのお辞儀という具体的で映像的な情景により描ききっている。
ここで、戻れなさを強調する為に大きな役割を果たしている「汽車/電車」について少し考えてみたい。
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財津作品における汽車/電車に乗ること
汽車/電車に乗ることは、財津作品における通過儀礼的なテーマの、重要な構成要素であり、決定的な別れや、新しい世界への出発、そしてそれに伴う成長を演出するものとしてしばしば登場する。
「あーだから今夜だけは君を抱いていたい あー明日の今頃は僕は汽車の中」(『心の旅』)
は、財津作品の最も印象的な部分であろう。
財津作品ではじめて「汽車/電車」が登場したのは、1stアルバム『魔法の黄色い靴』の2曲目『あいつが去った日』だが、「大人」という言葉も、この曲が初登場であるのは興味深い。
「地下鉄の電車の中にあいつは消えていった」
「あーあ、あいつも 大人になった」(『あいつが去った日』)
夢にしがみつき、「大人」になれていない「僕」と対照的に、「大人」になっていった「あいつ」は、夢を捨てて、"電車に乗って"去ってゆく。子供状態と訣別していった「あいつ」が「電車」に乗って去ってゆくのは象徴的である。
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「磨かれた革靴」から「洗いざらしのズック」へ
「磨かれた革靴というよりも 洗いざらしの ズックのような そんな心で 愛してごらん あなたが選んだ あの人を」
『青春の影』について書いた第一回でも触れたが、これは財津作品にしばしば見られる「恋と愛」の二元論を、これまた財津作品にしばしば登場する「靴」で表現した例であろう。
『Wake Up』が収録されたアルバム『I need you and YOU』には『恋と愛の間』という曲がある。
「恋はいつも カラー写真 愛はいつも モノクロ写真 恋はいつも45回転 愛はいつも 33回転 恋はダイアリー 愛はヒストリー 恋は波の音 愛は海の音 恋はいつも蜜の味 愛はいつも いつも 水の味」(『恋と愛の間』)
これに即して言うなら、「恋は磨かれた革靴 愛は洗いざらしのズック」となる。
「磨かれた革靴」は、特別なもの、立派なものであり、「洗いざらしのズック」は、日常的なもの、平凡なものである。特別なものへの憧れではなく平凡なものの素晴らしさの発見という道のりは、精神的な意味で、子供から大人への成長と対応する。
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「今 愛がつきぬける」の「今」とは
「Wake Up Wake Up Wake up Wake Up 今 愛がつきぬける あの人へ あの人へ」
「愛がつきぬける」という表現が印象的だが、その前にある「今」について考えたい。
「今 愛がつきぬける」という事は、逆に言うなら、"今まで"は愛が突き抜けなかった事になる。なぜ今までは愛が突き抜けなかったのに、今は愛が突き抜ける事が出来るのだろうか?
今まで愛が突き抜けなかった理由は、今この瞬間まで「あなたが生まれた家」に象徴される子供としての自分を断ち切れていなかったからだと私には思われる。
はじめに触れたように、『Wake Up』の世界は、「あなたが生まれた家」と「あなたが選んだあの人」を両極に持っている。
「あなたが生まれた家」は「今」までの子供時代の象徴であり、
「あなたが選んだあの人」は「今」からの大人としての日々の象徴になる。
そしてこの2つは両立しない。子供でありながら大人であることは出来ない。財津作品において、子供と大人とは截然と区別されている。財津さんの著書『ペンとカメラのへたのよこず記』(1984)によると
「若さと大人は繫がってはいない。若さと大人は太陽と地球くらい違う。」(48頁)
からだ。
「あなたが選んだあの人」のもとへ向かうためには、「あなたが生まれた家」を捨てなければならない。この作品に描かれる移行
「あなたが生まれた家」から「あなたが選んだあの人」へ
「学舎への道」から「嫁ぐ道」へ
お辞儀に値しない存在からお辞儀に値する存在へ
「磨かれた革靴」から「洗いざらしのズック」へ
これらは精神的な意味で、子供としての自分を終わらせて大人として生まれ変わる過程である。
一日の終わりの24時と一日の始まりの0時が重なり合う一瞬のように、子供としての終わりと、大人としての始まりが重なり合う一瞬が「今 愛が突き抜ける」の「今」になる。
子供としての自分を断ち切り、大人として生まれ変わる、大人として目覚める(Wake Up)「今」、大人側の象徴である「あなたが選んだあの人」に、ようやく愛が突き抜ける事が出来るようになった、と考えられる。
また、この「突き抜ける」と言う表現が、再度財津作品に現れるのは、1997年の再結成時に発表された『シェア』と言う楽曲だが、この作品にも「戻れない」と言う言葉が登場する。
「赤い赤いトキメキが Hi!Hi!Hi!Hi! 突き抜ける」
「始めて見た時 永遠が始まった 大人のおとぎ話に 迷い込んだボクは 二度と昨日に戻れないさ」(『シェア』)
この作品でも、新しい始まり(「永遠が始まった」)は、以前の状態に「戻れない」ことと組み合わされている。
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財津作品における「今」の重要性
第一回の文章でも触れたように、代表的な財津作品は、『虹とスニーカーの頃』を除いて、「今」と言う言葉を効果的に用いている。これは偶然だろうか?
「あーだから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中」
「にぎやかだった街も 今は声を静めて なにをまっているのか なにをまっているのか」(『心の旅』)
「とてもとてもけわしく 細い道だったけど 今 君を 迎えにゆこう」
「自分の大きな夢を 追うことが 今までの僕の 仕事だったけど 君を幸せにする それこそが これからの僕の生きるしるし」
「君の家へつづく あの道を 今 足もとに たしかめて」
「今日から君は ただの女 今日から僕は ただの男」(『青春の影』)
「春はもうすぐそこまで 恋は今終わった」(『サボテンの花』)
「今後よろしくお願いします 名刺がわりにこの歌を」(『切手のないおくりもの』)
「Wake Up Wake Up 今 愛が突き抜ける あの人へ あの人へ」(『Wake Up』)
これらの「今」は、ほとんど同じ使われ方をしている。ある状態の終わりと、別の状態の始まりが重なり合う「今」、今までと今からで人生が大きく変わるような転機に立った「今」である。
「にぎやかだった街も 今は声を静めて なにをまっているのか なにをまっているのか いつもいつのときでも 僕は忘れはしない 愛に終わりがあって 心の旅が始まる」(『心の旅』)
街全体が静かと言う事は夜中の情景と思われるが、夜中とは、夜と朝の間、一日の終わりと次の日の始まりが重なり合う瞬間だ。その終わりと始まりの重なり合う瞬間が「今」であり、後に続く「愛に終わりがあって心の旅が始まる」の終わりと始まりへと連鎖してゆく。
「君が育てたサボテンは小さな花を作った春はもうすぐそこまで 恋は今終わった この長い冬が終わるまでに何かを見つけていきよう 何かを信じて生きてゆこう この冬が終わるまで」(『サボテンの花』)
「花を作った」「春はもうすぐそこまで」は、誕生、新しい"始まり"の予感であり、これが恋の"終わり"と対照になっている。
このような、"終わり"と"始まり"、その重なり合う瞬間、始まりをはらんだ終わりとしての「今」構造は、財津作品に頻繁に登場するが、子供の終わりと大人の始まりを描いた作品『今日と明日の間に』について最後に触れておきたい。
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『今日と明日の間に』
『今日と明日の間に』は、『Wake Up』と同年に発売されたアルバム『Someday Somewhere』収録曲だ。どちらも大人的な存在が、子供から大人への成長の時を迎えた若者を「あなた」と呼び、語りかける歌になっている。
この2曲は、「今」、それまでの日々に別れを告げる試練を通過することで、子供としての時が終わり、大人として生まれ変わる瞬間を描いている点において、財津的通過儀礼の典型的な作品である。
まず、『今日と明日の間に』でも、「今」と言う時が、一つの状態の終わりと新しい始まりの重なり合う瞬間としての「今」として描かれている。
「誰だって いつまでも 忘れられない恋があるけれど 誰だって その恋に 別れを告げるときがくる そうさ 今日から明日は 今日から明日は あなたが大人になるとき」
「失くした愛とすれちがいに 心に生まれた優しさを ポストに入れて おくりなさい 誰より先に あなたの心へ」(『今日と明日の間に』)
恋に別れを告げると言う試練によって、今日から明日の間に、子供としての時が終わり、大人としての時が始まる。
そして終わり(「失くした愛」)が、新しい始まり(「心に生まれた優しさ」)につながる。
愛を失くした事で、心に優しさが生まれると言う構造は『心の旅』における「愛に終りがあって 心の旅がはじまる」にも近い変化だ。
これら新しい始まりは無償で手に入るものではない。新しい始まりは、一つの状態を終わらせる試練に耐える事によって可能になる。
『Wake up』の場合は、生まれた家から涙を拭いて旅立っていく事や、親からお辞儀されて守って貰える立場では居られなくなると痛感させられることが、通過儀礼的な子供時代との分離の役割を果たしている。
「今 愛がつきぬける」の「今」は、結婚の日が来たから自動的に「愛がつきぬける」と言うのではない。「あなたが生まれた家」に象徴される子供としての自分を断ち切る、その試練を突破した「あなた」が、大人として目覚めた力強い「今」であると思われる。
(次回は、財津作品における「帰らない」「戻らない」について書きます)