塔の夢

やや長めの考察?です。

『青春の影』(チューリップ)と通過儀礼 財津和夫作品における通過儀礼第一回


青春の影 - YouTube

 

チューリップ財津和夫作品における通過儀礼 第一回

 

 

 

通過儀礼とは、人間がある状態から別の状態へと移行する際に行われる儀式である。入学式、卒業式、成人式、結婚式、葬式などがそれにあたるが、日常的なレベルで「この苦難を乗り越える事が、大人になるための通過儀礼だった」などともいう。

 

ここで重要なのは、以前の状態を脱して新しい状態に移行したあと、以前の状態に戻る事は基本的に許されないと言う事だ。「もう今までのようにはいられないこと」「今までの状態に戻ることは出来なくなること」そして「新しい状態で生きていかなければならないこと」を本人や周囲に痛感させるためにこの儀式があると言っても良いだろう。

 

卒業式はもう学生ではなくなる事を意識させ、成人式はもう子供ではなくなる事を意識させ、結婚式はもう独身ではなくなる事を意識させ、葬式は死んでしまった者はもう決して帰らない事を意識させる。

 

そして通過儀礼を経て一つの状態を決定的に終わらせたことによって、新しい状態へと生まれ変わる事が出来る。

 

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チューリップ財津和夫さんの歌を聞いていると、こうした通過儀礼的なテーマ、ある状態から別の状態への移行、子供から大人への成長、ある種の生まれ変わりを扱った作品がしばしば見られる事に気付く。また財津さんの書かれる歌詞に繰り返し登場する言葉、「生まれる/生まれ変わる」「帰らない/戻らない」「二度とない」「もう一度」も、こうした通過儀礼的なテーマと無縁ではないように思われる。

 

今日から財津和夫作品における通過儀礼と言うテーマで文章を書いてみたい。

 

  • 財津作品における「今」という言葉

 

財津さんの代表的な作品として挙げられる事が多いのは『心の旅』『青春の影』『サボテンの花』『切手のないおくりもの』『虹とスニーカーの頃』『Wake Up』あたりであろう。それら代表作はいずれもある種の通過儀礼を扱っていると見ることができる。さらに『虹とスニーカーの頃』を除いて、「今」と言う言葉が非常に印象的に用いられている。

 

「あーだから今夜だけは君を抱いていたい あー明日の今頃は僕は汽車の中」

「にぎやかだった街もは声を静めて 何を待っているのか なにを待っているのか」(『心の旅』)

「春はもうすぐそこまで 恋は終わった」(『サボテンの花』)

「知り合えたあなたに この歌を届けよう 今後よろしくお願いします 名刺がわりにこの歌を」(『切手のないおくりもの』)

「Wake  Up Wake  Up  愛がつきぬける あの人へ あの人へ」(『Wake  Up』)

 

第一回は、代表作の中で「今」と言う言葉が最も多く用いられている『青春の影』から話を始めたい。

 

 

青春の影』でまず気になるのが「今」と言う言葉が何度も登場している点だ。

 

「とてもとてもけわしく 細い道だったけど 今 君を 迎えにゆこう」

「自分の大きな夢を追うことが までの僕の 仕事だった」

「君の家へつづく あの道を 今 足元にたしかめて」

今日から君は ただの女」

今日から僕は ただの男」

 

「今日」も含めて5回も「今」と言う言葉が使われている。「今」と言う時にこれほど意識的なのは、この主人公がまさに「今」人生の大きな転換点に立っているからだ。では、どんな転換点か。

 

 

青春の影』ではふたつの変化が描かれている。

 

「自分の大きな夢を 追うことが 今までの僕の 仕事だったけど 君を幸せにする それこそが これからの僕の生きるしるし」

「愛を知ったために 涙がはこばれて 君のひとみをこぼれたとき 恋のよろこびは 愛のきびしさへの かけはしにすぎないと」

 

「僕」には「自分の大きな夢を追う」→「君を幸せにする」と言う変化

「君」には「恋のよろこび」→「愛のきびしさ」と言う変化

 

このふたつの変化によって描かれるのは、精神的な意味での子供から大人への成長であろう。それを以下に見ていきたい。

 

  • 自己愛から世界愛へ

 

1973年に発売されたライブ盤『LIVE !! ACT TULIP』のライナーノーツに、財津さんは印象的な言葉を残している。

 

「"自己愛から世界愛へ" それはガキから大人への出発点でもあるのです」

 

青春の影』発売の前年にこのような子供/大人観が、財津さんの中にあったことは興味深い。この発言を

「自己愛」(自分のためだけに生きる子供=自分の大きな夢を追う)

「世界愛」(自分以外のもののために生きる大人=君を幸せにする)

と考えれば、『青春の影』の歌詞と重なるように思われるからだ。

 

さらにこの曲が収録されたアルバム『Take Off』に収められた『悲しみはいつも』の歌詞も、似た心境の変化を扱っているように聴こえる。

 

「若い日 この人生は ぼくのものだと 信じてた でも今 すべての人は 心をよせるべきさ ぼくの人生は 君のものであり 君の人生は ぼくのものさ」(『悲しみはいつも』)

 

青春の影』の「僕」は、やや大袈裟に言えば、自己愛的時間(子供)の終わりと世界愛的時間(大人)の始まりに、「今」まさにたっているのではないか。

 

  • 恋のよろこびから愛のきびしさへ

 

「愛を知ったために 涙がはこばれて 君のひとみを こぼれたとき 恋のよろこびは 愛のきびしさへの かけはしに すぎないと ただ風の中に たたずんで 君はやがて みつけていった ただ風に 涙をあずけて 君は女になっていった」

 

「女になっていった」と言う事は、その前は女ではなかったことになる。では何から女になっていったのか。タイトルに「青春」と言う言葉が入っている以上、少女から、であろう。

 

「ただ風に 涙をあずけて 君は(少女から)女になっていった」

 

ここで少女から女(子供から大人)になるための試練の役割を果たしたのが「恋のよろこび」から「愛のきびしさ」への変化である。「恋のよろこび」の側にいた少女が、「愛のきびしさ」に直面して初めは涙するものの、最終的にはその涙を風にあずけていく(涙を置いていく、捨てていく)。涙は言ってみれば弱さや未熟さである。愛のきびしさで流した涙を捨てることは、愛のきびしさに涙した少女(子供)としての自分を捨てることを意味する。そして涙を捨て自身の弱さや未熟さを克服した事で、少女(子供)から女(大人)になっていった、と考えることができる。

 

また、「かけはし」とは陸と陸とをつなぐ過渡的なものであり、そこにとどまり続けることは出来ない。「恋のよろこび」が、一時的に通過するだけのやや不安定な橋であるのに対して、「愛のきびしさ」は陸であって、これはしばしば終わりの見えない広がりである。だからこそ一時的なものである「恋のよろこび」は「かけはしにすぎない」と低い評価が与えられている。

 

さて、ここで一つ疑問が生じる。「風に涙をあずけて」の、涙をあずけて行く「風」とは一体なんだろうか。『青春の影』における「風」を考える前に、財津作品における「風」について振り返ってみよう。

 

  • 財津作品における風の役割

 

財津作品にはよく「風」が登場する。財津さんの近著『じじぃは蜜の味』(2023)にも

 

風は素晴らしい。生きているここは動の世界であることを教えてくれる。長く生きても人生はますます不可解。でも風が木々の葉、散歩する犬の長毛、女性の髪などを揺らすのを眺めていると、"人生とは何"なんて答えを求める自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる(49頁)

 

と書かれているし、ファンクラブが「ゼファー(そよ風)クラブ」であることからも「風」に対する思い入れが感じられる。

 

歌詞に登場する「風」も、担う役割は多岐に渡っているが、ここではとりわけ印象深いものを挙げてみたい。まずエッセイにも描かれているように、女性の髪を揺らす、女性の魅力を強調するような描き方がある。

 

「真赤な車でいつもやってくる そよ風がよく似合う女の子」(『夢中さ君に』)

「長いにとかせ 夕暮れにいつも 外をながめてた 白い開き窓」(『愛のかたみ』)

が君のを 激しく揺らしてる」(『愛は戻れない』)

「リサ リサ 黒いを のなかにおよがせて」(『黒いのリサ』)

 

思いを運んでいくものとしての「風」もある。

 

よ 伝えておくれあの子に僕はこんなにも愛していると」(『よ』)

 

そして最も重要な使われ方は、ある種の時間感覚を伴った風だ。過去の時間を喚起するもの、時間の経過を感じさせるもの、などの風である。

 

「いつのまにか 月日は過ぎる 君は忘れていった君が愛した友を まわれよ まわれよ 君は車 風に身をまかせて」(『風車』)

すぎた日はすぎた日さ ふりかえる気はないけれど が吹く そんな時 ふと思い出す 君の涙」(『そんな時』)

夏が通りすぎ が流れて」(『セプテンバー』)

なつかしいあの日よ」(『私のアイドル』)

「どこかになくした愛ひとつ きのう流れたの中」(『なくした言葉』)

長い年月(つきひ)に流れ 僕らの子供も恋をして家を離れていった時小さなシワがまた一つ」(『僕がつくった愛のうた』)

「あー 今はひとり 街をさまよえば あー 夏の終わりを告ぐ が吹くだけ」(『風のメロディ』)

子供の頃には 毎日が長かった あの頃の思い出は 何もかも忘れた そうさ round round  round  round  round round round round 車のように僕はただ廻る」(『置いてきた日々』)

「髪をゆらす は 春を告げ ひとつの季節が 終わるよ」(『星空の伝言』)

月日に流されて いつか大人になっていた」(『Jack is a boy』)

想い出と同じが吹くなら」(『再会の日』)

遠い記憶 古い写真の奥」(『You are in the world』)

 

風が、過去や時間の経過と結びついて用いられている。今回は特に『丘に吹く風』の「風」に注目したい。

 

はいつしか歌をやめ まるで時間を止めたよう」(『丘に吹く風』)

 

ここでは風がやむことが時間の停止感と結びつく。逆に言えば風が流れていれば時間が流れていると感じる。そして「生きている動の世界」を感じさせてくれる事になる。財津さんは著書『ペンとカメラのへたのよこず記』(1984)でこうも書いている。

 

は一見無味だが、実は時間の壁を超えて吹いてくるのである。つまり、過去未来やあらゆる時空を、僕に運ぶことができる。だから僕は、性格をたがえた無限無数の風たちのまことに一大コレクターといえる」(28頁)

 

財津作品の風と時間に対する結びつきはここでも明らかである。では、『青春の影』の風とは何か。

 

  • 「風」は青春の時空?

 

「ただ風の中にたたずんで 君はやがて見つけていった ただ風に涙をあずけて 君は女になっていった」

 

ここで、「君」は「風の中」から外へと移動している。はじめに、「風の中にたたずんで」と「風の中」にいる状態が示される。そして、「風に涙をあずけて」と歌われる。普通「あずける」というのは、あずけた場所から、離れていかなければ使わない(例えば、実家に子供をあずけて職場へ向かった、などという。実家に子供をあずけて実家にいる、などとは言わない)。つまり、風に涙をあずけて、と言う事は風から離れていっているはずだ。

 

「風の中」にたたずんでいた状態から風に涙をあずけて"風の外"へと出ていった状態へと変化している。"風の中から外へ"出ていくとき、「涙をあずけて」「女になっていった」と言うことは、「風の中」にいた時はまだ女になる前、つまり少女だった事になる。

 

風の中にいた時は少女で、風の外に出ていったら女である事から考えて、この風は青春の時空を表していると思われる。

 

風=青春の中にいた時は少女

風=青春の外へと出ていった時は女

 

青春の影』の他に「風の中にたたずんで」いる状態が登場する歌がある。『たしかな愛』である。

 

「子供の頃に黙って佇んだ そよ風の中になぜか戻って行く」(『たしかな愛』)

 

そよ風の中に佇んでいたのが、子供であることは興味深い。『青春の影』で風の中に佇んでいるのも、女になっていく前の少女(子供)であるからだ。

 

『たしかな愛』では、風の中に戻って行くと歌われるが、『青春の影』では、風の中に戻ることはないであろう。「涙をあずけて」は、涙を取りにでも帰るようにきこえるが、ここで「あずけて」、歌唱では「ああずけて」と歌われているのは、風の中に「たたずんで」とかけるためだと思われる。

 

たぁだぁ風の中に たぁたぁずぅんで」

たぁだぁ風に涙を あぁあぁずぅけて」

 

  • 内部から外部へ

 

青春の影』の「風」が、青春の時空を表し、その"内部から外部への移行"と"涙をあずける(涙と訣別する)"ことによって、少女から女へ(子供から大人へ)の成長を描いている事に触れたが、これと似た現象は、『Wake Up』や、『サボテンの花』にも見られる。

 

「涙をふいたら 行きなさい あなたが生まれた 家をうしろに」(『Wake Up』)

 

青春の影』の「君」は、青春時代の象徴である「風」の"内部から外部へ"と「涙をあずけて」出ていく事で、少女から女になっていった。

 

『Wake Up』の「あなた」は、子供時代の象徴である「あなたが生まれた家」の"内部から外部へ"と「涙を拭いたら」旅立っていく事で、子供から大人への第一歩を踏み出した。

 

サボテンの花』も、"内部から外部への移行"と、その際の"涙"と言う共通項を持っている。

 

「思い出つまったこの部屋を 僕もでてゆこう ドアにカギをおろした時 なぜか涙がこぼれた」(『サボテンの花』)

 

「思い出つまったこの部屋」の"内部から外部へ"と出てゆき、その際に、「涙がこぼれた」。財津さんの著書『私のいらない』(2013)で、こんな記述がある。

 

サボテンの花』では、主人公が異性と出合ったことで、個(ひとり)からペアになり、色々あって再び個に戻る。でもそこには、以前の個とはちがう「成長した新しい個」が出現しているのです。(124頁)

 

以前とは違う成長した存在になり、新たな人生を歩みだす過程が"内部から外部へ"の移動によって象徴的に表されている。

 

  • 恋と愛

 

財津作品には「恋と愛」の対照がしばしば登場する。

 

の間』

「ぼくは思う いつもいつも は人を裏切るけれど 大事なことは いつもいつも は君を裏切りはしない」(『We Can Fly』)

「君にはだった ぼくにはいつでもそれはだった 海の深さより いつも君を愛していたよ」(『it WAS love』)

「壁のない はない 壁のある はない が時を止めるもの の日々は生まれない が時を刻むもの の日々は色褪せる」(『ロベリア』)

「まっ赤な花 水平線 は消えて が残る はたのし 南の島 は悲し 南の島」(『まっ赤な花と水平線』)

 

これらと比較して『青春の影』がより痛切に感じられるのは、他の作品のように恋と愛の性質の違いを描く事にとどまらず、一方からもう一方への移行を描き出し、そこに少女としての終わり、青春との訣別と言う通過儀礼的なテーマを重ねて描き出したためではないか、と私には思われる。

 

  • 「あの道」?

 

「君の家へつづく あの道を いま 足もとに たしかめて」

 

この歌詞に、少し疑問が生じる。今、立っている道をなぜ「あの道」といっているのか。今、そこにいるのなら「この道」のはずだ。「この道」が「あの道」と呼ばれるためには、以前にその道についての何かがなければならない。今、いる場所にあのを使う場合「学生時代よく来たあの店を訪ねてみると」とか「田舎に居た頃憧れていたあの東京にいる」とか、そんな風に過去に何かがあるように思われる。

 

これは、参照しているはずの『The Long and  Winding Road』(The Beatles)

 

「I've seen that road before」

「But still they lead me back to the long and winding road」(『The Long and Winding Road』)

 

の回帰感を念頭に置き、「あの道」になっていると思われるが、併せて思い起こされるのは、財津さんには道を現在と過去の二重に捉える感性があることだ。

 

「学び舎への道 今日は嫁ぐ道」(『Wake Up』)

 

ここでは、一つの道が過去と現在の二重に表現されている。また『夕陽を追いかけて』では

 

「あの海辺の道 いまは車の道」(『夕陽を追いかけて』)

 

と歌われている。「あの」と「いま」が登場するので、より興味深いが、ここでも一つの道が過去と現在の二重になっている。『Wake Up 』や『夕陽を追いかけて』の道は、過去と現在を対照的に描き、そこから時間の経過や変化を表現しているのに対して、『青春の影』の「君の家へつづく あの道を いま 足もとにたしかめて」では、過去と現在の対照は登場していない。しかし、この主人公には、思い出なり何らかの過去が存在しているのだと思われる。

 

  • 別れか結婚か?「今日から君はただの女 今日から僕はただの男」

 

この謎めいた言葉には、主にふたつの解釈がある。ひとつは、この男女が別れてしまった為に、相手が恋愛関係にある特別な存在から、"関係のない他人"になる、と言う解釈。そしてもうひとつは、男女が結婚し"平凡な何者でもない人"になる、と言う解釈である。

 

https://www.1242.com/radio/yagi/archives/377

 

↑での財津さんの発言によると、これは別れではなく、「小市民的なつつましい生き方」についての歌だという。つまり後者の、結婚して"平凡な何者でもない人"になる、と言う意味であろう。

 

私も、やはりそちらの解釈を取りたい。

 

まずはじめに触れたように、この作品で5回も使われる「今」を軸に考えてみる。「今日から僕はただの男」という事は、逆に言えば

"今日まで"の僕は、「ただの男」ではなかった、あるいは「ただの男」以外への可能性があった、と言う事になる。では今日まで何をしていたのか?

 

「自分の大きな夢を追う事が今までの僕の仕事だった」

 

つまり、「自分の大きな夢」を追っていた時は、「ただの男」ではない存在になれる可能性があった。しかし、それをやめる今、「ただの男」になることが確定する、と考えれば、「ただの男」の意味は「自分の大きな夢」と対照的なもの、つまり平凡な人間になる。

 

財津さんの言葉を思い出せば「小市民的な生き方」、この「市民」とは、「自分のきな夢」とまさに正反対の生き方を指すと思われる。

 

そしてもう一つ。「恋のよろこびは 愛のきびしさへの かけはしに すぎない」という言葉なのだが、前にも触れた通り、「恋のよろこび」を"橋"であるとすると、「愛のきびしさ」は"陸"になる。橋が「かけはしにすぎない」と、低い評価を与えられているのは、橋が過渡的なもの、短く一時的なもの、不安定なもの、だからだと思う。「愛のきびしさ」は、橋と対照的な陸であり、これはずっと続いている、どっしりとした広がりである。この恋と愛について

 

財津さんの著書『ぼくの法螺』(1981)によると

 

結婚相手が決まると、恋は終わります。恋は不安だからおもしろいものです。 でも、かわりに愛が生まれてきます。愛は安定するものだから素晴らしいものです。」(106頁)

 

と書かれている。結婚相手が決まると恋が終わり、愛が生まれてくる。"恋の不安と愛の安定"は、"かけはしの不安定と陸の安定"として、『青春の影』で表現されていたのであろう。橋のようにすぐ過ぎる恋は終わり、陸のようにずっと続く愛のきびしさの境地が始まったと考えた方が、別れてしまうより、私にはより感動的に思える。

 

  • 青春の光と影

 

もう一度、整理すると『青春の影』には、

「自分の大きな夢」や「恋のよろこび」に象徴される子供(少年/少女)的世界と、

「君を幸せにする」や「愛のきびしさ」に象徴される大人(男/女)的世界、

二つの世界があり、この子供側から大人側への移行が扱われている。

 

そう考えれば、「今日から君は ただの女」にしても、「恋のよろこび」に代表される青春の輝きを失った平凡な大人という意味だと思われる。また、「女」という言葉は、すでに一度「君は女になっていった」という形で使われているが、この「女」は、「男」の反対物としてではなく、「少女」の反対物として用いられているニュアンスが強いために、ただの女も「恋のよろこび」に代表される少女的青春的あり方の反対物と考えられる。

 

青春の影』の素晴らしさのひとつに、男性側の変化と覚悟だけでなく、女性側の変化と覚悟も描いている点があると思うのだが、男側が「今 君を 迎えにゆこう」と現在形なのに対して、女側の描写は「君は女になっていった」と過去形になっている。女性の方が若干先に"少女から女"になっていき、男の側は「今」、"少年から男"になる決意をした。そして先に大人になった「君」を、「今」大人になった「ぼく」が、迎えにゆく。

 

そして二人は決定的に、今日から自分の大きな夢や恋のよろこびに象徴される子供(少年/少女)的なあり方を捨て、何者でもない平凡な、ある意味では退屈な大人になる自分たちを受け入れる。そして子供としての時が終わる。つまり青春が終わる。つまり大人になる。

 

しかし「ただの女」「ただの男」に見える平凡な大人も、裏を返せば「愛のきびしさ」に耐え続ける人間、「きみを幸せにする」ために生きる人間という事になり、それは「恋のよろこび」や「自分の大きな夢」よりも、本当の尊さ、素晴らしさがあるのではないか。

 

このような、魅惑的なもの、特別なものよりも、平凡なもの、普通のものの方に、本当の偉大さがあるという主題は『Wake Up』に

 

磨かれた革靴というよりも 洗いざらしの ズックのような そんな心で 愛してごらん あなたが選んだ あの人を」(『Wake Up』)

 

と受け継がれてゆく。

 

(次回は『Wake Up』について書きます)