塔の夢

やや長めの考察?です。

財津和夫作品における「帰らない・戻らない」と「魔法」 財津和夫作品における通過儀礼第三回


TULIP 「銀の指輪」(リリックビデオ) - YouTube

 

チューリップ財津和夫作品における通過儀礼 第三回

 

第一回は『青春の影』について

https://alabanda.hatenablog.com/entry/2023/11/09/141445

第二回は『Wake Up』について

https://alabanda.hatenablog.com/entry/2023/12/31/230006

子供から大人への成長と言う通過儀礼的な観点から書いてきた。

 

さて第三回は、歌詞にしばしば登場する「帰らない」あるいは「戻らない」という言葉を辿り、さらに「魔法」との関係から財津作品を考えてみたい。

 

 

  • 『銀の指環』から『想い出に話しかけてみた』まで

 

財津さんほど「帰らない」「戻らない」という言葉を繰り返し取り上げてきた人も珍しいのではないか。

 

「帰らない」「戻らない」は、1974年『銀の指環』で

 

「二度と帰らない夢のような恋よ」(『銀の指環』)

 

と歌われたのから始まり、2022年『想い出に話しかけてみた』で

 

「あの日にはもう 戻れないから 風よ伝えて あの言葉謝りたいと」(『想い出に話しかけてみた』)

 

と、歌われるまで50年近い歳月、繰り返し用いられてきた。「帰りたい」や「もどってきてね」などの願望も含めて歌詞に登場する「帰らない」「戻らない」を振り返ってみよう。

 

  • 「帰らない」「戻らない」系

 

「二度と帰らない 夢のような恋よ」(『銀の指環』)

「いつかいつの日にか なくした愛の ことば戻す人を今は信じて」(『なくした言葉』)

「故郷へ帰る時 君は泣いていた もどれないかも知れない ぽつんと言葉残した」(『ふたつの鍵』)

「だから今 だから今 もどって来てくれ この部屋に」(『淋しくて淋しくて』)

もどっちゃだめと 自分に言った 切り捨てたはずの ふるさとだから」(『夕陽を追いかけて』)

「たった一度の人生に躓いて 取り戻せなくなったら」(『酒の唄』)

「いま夜汽車にのりこんだ もう二度ともどらない この街東京」(『Blue Train』)

「おまえはなぜあのドアから 戻っては来ない 来ない 来ない」(『心の糸』)

「その訳を教えてくれなけりゃ もう人間にはもどれない」(『恋のドラキュラ』)

「まだ とり戻せない ひとりだけど それはそれで 楽しかった日々を」(『青空』)

「あの頃に もう一度戻らなけりゃ あの頃にもう一度帰りたい」(『約束』)

「ビデオ・テープを巻き戻すように 過ぎ去った時は取り戻せない」(『雨が降る』)

「ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」(『Wake Up』)

「簡単 だから ぼくらは これをこわした この友情を裏切った この友情をとりもどさなきゃ」(『I need you and YOU』)

「どうして花は咲くのだろう どうして時は戻らないの」(『一枚の絵』)

『愛は戻れない

帰るはずない すぎたあの日を 偲ぶ心を わかっておくれ」(『おくれる時計』)

「恋の傷痕に雨は 似合いすぎるから きっとぼくらは昔に 戻れないね」(『明日、天気になれ』)

「男と女が まるで逆さま せめて戻ってみたい明治時代」(『街は黄昏がれに抱かれ』)

「ビデオテープを戻すようには愛は戻せない」(『愛の迷路』)

「あの日にまた もどりたいと どうして 言えなかった」(『抱きあって』)

「たたずんでいた後姿が ドアに消えて行く もう一度だけ もう一度だけ 戻っておいで 髪をほどいて」(『都会の月』)

「抱きあった優しさが 戻りたいと迷わせる  抱き合った激しさが もう一度と迷わせる 抱き合った激しさが 戻れないと教えてる」(『急行の停まる街』)

「僕らは戻るの まだ他人だった 幸せはない でも苦しみもない日々」(『時が経てば』)

「そして必ず もどってきてね ひまわりの咲く この家へ」(『ひまわりの家』)

「いつでも いつでも 戻っておいで ここが君の生まれた家だから」(『この愛は忘れていいよ』)

「訊かないよ さよならのその訳は たずねたら戻れるの 幸せに」(『別れという愛』)

「お願い気持ちを 過去にもどさないで」(『愛を待たせてる』)

「大人のおとぎ話に 迷い込んだボクは 二度と昨日に戻れないさ」(『シェア』)

「あの時に君とギターでつくった愛のうた もう二度と戻れない日々 風と唄うだけ」(『「ストーヴ」』)

「どうしたらいい 忘れられない 子供のあの日 とりもどしたい」(『夢の鍵』)

もどれない人生でも 君さえいてくれたら」(『この世の端でも』)

「子供にもどって あなたを呼ばせて もいちど包んで 母の腕で」(『虹色の心〜あるいは母の掌〜』)

「もう二度ともどれない もう二度と Turn around Turn around Turn around」(『金色の草原』)

「君の笑顔で 男を許して そのやさしさへ 戻してあげて」(『エピローグ』)

『あの星へもどろう

「あなたは言った 天気のよい日に 必ずここまで 帰ってくると」(『翼はいらない』)

「ずっと待っているんだ 奇跡が起こるかもって 君が戻ってくるって 昔の自分に戻れない」(『愛していたい』)

 

「帰らない」「戻らない」系は、「過ぎ去った時は取り戻せない」のように、この世界の原則に対する認識でもあれば、「戻っちゃだめと自分に言った切り捨てたはずのふるさとだから」のように自分が成長するための覚悟である場合、「もどってきてくれ」のように願望である場合など様々だが、「戻る」「戻らない」と言う感覚、特に「戻らない」と言う不可逆性が、いかに財津的世界を支配しているかがわかる。

 

財津作品において、一度失われたものは基本的には「帰らない」「戻らない」。その一回性を噛みしめることが、財津作品の基本的な姿勢であり、この言葉が登場しない作品においてすら、重要な役割を担っていることがある。

 

例えば『心の旅』では、「遠くはなれてしまえば愛は終わる」。そして、決して戻らない覚悟、予感があるからこそ

 

「あーだから今夜だけは君を抱いていたい」

 

と言う切実な願望が生まれてくる。これがもし旅立っても、うまくいかなければすぐに戻ってくればいいと言う軽い気持ちなら、この切実さは生まれないだろう。

 

第二回で『Wake Up』について書いた際にも触れたが、この「戻れなさ」は通過儀礼的なテーマとも密接に関係している。

 

もどっちゃだめと 自分に言った 切り捨てたはずの ふるさとだから」(『夕陽を追いかけて』)

「ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」(『Wake Up』)

 

ここでは、以前の状態と別れを告げ、新たに旅立った若者の姿が描かれているが、そこには覚悟や厳しさがあり、戻って来ない/来られない事が成長を促す側面がある。もし簡単に戻ってきてしまうなら、その人間は子供の状態に逆戻りしてしまい大人になれない事になる。

 

財津和夫 人生はひとつ でも一度じゃない』(NHKザ・ヒューマン取材班」川上雄三)では、

 

「福岡から見ると、当時の東京は異国のような大都会でした。福岡にはない首都高や地下鉄を見るだけで、もう負けそうと弱気になって福岡へ戻りたくなってしまうんです。」

「故郷を捨てるなんてセリフ、若いからこそ言えたんでしょうね。でもね、本心じゃない。里心がつかないよう、強気にふるまっていただけなんです。いわば、退路を断つための苦肉の策(苦笑)」(29頁)

 

と発言されている。『夕陽を追いかけて』や『Wake Up』はどちらも1970年代の作品であり、1990年代の作品では

 

「そして必ず もどってきてね ひまわりの咲く この家へ」(『ひまわりの家』)

「いつでも いつでも 戻っておいで ここが君の生まれた家だから」(『この愛は忘れていいよ』)

 

と、態度が柔和なものに変化している。『Wake Up』で歌われた「ずっとあなたを 守ってきた その愛には もう もどれない」とは対照的だ。これは財津さんが結婚をし、実際に親側の立場になったことも関係しているかもしれないし、「故郷を捨てるなんてセリフ、若いからこそ言えた」と言う心境の変化もあるだろう。しかし、ここでも「戻る/戻らない」と言う事に意識が向けられているのは変わらない。

 

さて、「戻らない」「帰らない」は、「二度と戻らない」などと言う形で登場することもよくある。過ぎた時は戻らないのだから、それは「二度とない」と言う事である。

ここで「二度とない」系が浮上してくる。

 

  • 「二度と〜ない」系

 

二度と帰らない 夢のような恋よ 君は言ったね 指にくちづけして 二度とはずれない 不思議な指環だと」(『銀の指環』)

「どうせ二度目はない人生さ やりたいことを やってゆこうぜ」(『おいらの旅』)

「いま夜汽車にのりこんだ もう二度ともどらない この街東京」(『Blue Train』)

「もう二度とないだろう あなた名前を呼ぶことも」(『愛の窓辺』)

「だからお金を出しても 二度と二度と 悲しみという言葉は 買えやしない」(『Blue Eyes (この小さな星のうえで)』)

「花瓶にさした 花のように 二度と咲かない 愛があった」(『愛の風』)

「声をかけたら きっと二度と逢えない気分」(『真夜中のルビー』)

「大人のおとぎ話に 迷い込んだボクは 二度と昨日に戻れないさ」(『シェア』)

「もう二度ともどれない もう二度と Turn around Turn around Turn around」(『金色の草原』)

「今日からは二度と 会うことはない 約束をした そよ風の中で」(『時が経てば』)

「体はもう二度と はなれないねって」(『君がいない朝』)

「あの時に君とギターで つくった愛のうた もう二度と戻れない日々 風と唄うだけ」(『「ストーヴ」』)

もう二度と逢えないの 悲しみの海のような ブルー・ヴェルヴェット」(『ブルー・ヴェルヴェット イン ブルー』)

「短すぎる人生だから 愛は 二度と届かないだろう」(『hope』)

 

さらに「二度とない」と殆ど同じ意味で「一度だけ」がある。「二度と起こらない」と言う事は「一度だけだった」と言う事である。ここで「一度だけ」系も記載しよう。

 

  • 「一度だけ」系

 

一度っきりの この人生は 君の心一つで自由になるものさ 一度っきりのこの人生は 僕の心しだいだと解ってきたからさ」(『心を開いて』)

「何度生まれかわれと願ったろう たった一度の人生だから」(『生きるといふこと』)

たった一度の人生に躓いて 取り戻せなくなったら」(『酒の唄』)

「思ったように やってみるだけ 今日のこの日は 一度きりだよ 」(『フィジカル・ソング』)

たった一度しか ぼくらは生きてゆけないなら  そうさ何度でも 生まれ変わるのさ 魔法をつかって」(『We believe in magic』)

 

「戻らない=二度とない=一度だけ」と言う切なく過酷な現実に直面したとき、人はそれをたやすく受け入れる訳ではない。むしろ、たやすく受け入れられないがゆえに、繰り返し歌われているのであろう。失われた愛、かつての日々への郷愁は、「もう一度」と言う願望をうまずにはおかない。

 

  • 「もう一度」系

 

も一度だけお前と 腕組み歩きたい 時計台に続く レンガのあの道」(『娘が嫁ぐ朝』)

もう一度、編んでみようよ 心の糸で」(『心の糸』)

「あの頃に もう一度戻らなけりゃ あの頃にもう一度帰りたい」(『約束』)

「Give me a chance Give me a chance Give me a chance Give me one more chance」(『Give me a chance』)

「長い 長い 旅の果てに もう一度だけ 君に会いたい」(『いま、友へ』)

「でも ただ もう一度 この声にふりむいてよ カーテン・コールのように もう一度」(『君のせいじゃない』)

「さよなら 僕の道化者 もう一度 僕を笑わせておくれ」(『さよなら道化者』)

「白いTシャツに 赤い口紅つけなおして ぼくがもう一度やり直そうと 言うまえに」(『I am the Editer (この映画のラストシーンは、ぼくにはつくれない)』)

「人のなかに 紛れよう 人のなかで 生きてゆこう そしてもう一度 信じよう 限りのない 愛はあると」(『心の中は白い画用紙』)

「日曜日は 日曜日は ソファのうえで たった一人 たった一人 化石のように も一度だけ も一度だけ Ah--」(『夏は終わらない』)

「もう もう あの日から 新しい冬 君が眼を覚したら once again it's christmas day」(『ふたつめのクリスマス』)

「黄昏 浮き上がる ロベリアの白い花よ もう一度 伝えたい 僕の愛 君の肌に」(『ロベリア』)

もう一度 一度だけ あの夜をもう一度 ふるえる ふるえるよ 想い出をかくしても」(『想い出をかくしても』)

「Touch me once again」(『にせ者のシンデレラ』)

「Just tell me again you love me」(『Dreamless Nights』)

「たたずんでいた後姿が ドアに消えて行く もう一度だけ もう一度だけ 戻っておいで 髪をほどいて」(『都会の月』)

「ねぇ チーク・ダンス も一度チャンス ふたりにあの日を連れてきて」(『Mr.チーク・ダンス』)

「あの日 背中で動いた君の指 もう一度 この愛 動かして」(『君の指』)

もいちどうまれ もいちど信じよう」(『昼間の雨』)

「優しかった日々が 嘘なら嘘でいい もう一度 今 優しくして」(『「もうひとつ」の愛』)

「僕のこの自画像に 笑顔が描けないから あともう一度だけでいい 逢って欲しいんだ」(『愛の森』)

「あの夜をどうか捨てないで もう一度あの君のまま」(『Naked Heart』)

「抱き合った優しさが 戻りたいと迷わせる 抱き合った激しさが もう一度と迷わせる」(『急行の停まる街』)

「眠った君の あどけなさに 窓の明かりがゆれるよ もう一度ここで 抱きしめたい 今度は君の心を」(『僕の気持ち、君の気持ち』)

もう一度 会いましょう 想い出と同じ風が吹くなら」(『再会の日』)

「自分を助けよう 自分を許そう そしたらもう一度起き上がれるさ」(『この世の端でも』)

「日々がある 誰にだって きっともう一度 出逢うためのさようなら 僕たちの卒業」(『本当の言葉』)

「子供にもどって あなたを呼ばせて もいちど包んで 母の腕で」(『虹色の心〜あるいは母の掌〜』)

「つまずき倒れたなら あの虹浮かべて もう一度歩き出せるさ 新しい夢へ 歩こう虹をこえて もういちど翼を」(『あの日見た虹色』)

「Say Hello 瞳にもう一度 愛を誓うよ」(『I say hello』)

もいちど 生まれて もいちど信じよう 陽ざしの中で咲く 花のように もいちど 歌えると 自分を信じよう 梢の中で啼く 鳥のように」(『昼間の雨』)

 

「もう一度」には、

 

「とてもありふれた言葉だから 笑ってごまかしたけど 心の中でもう一度言おう 世界で一番ステキだと」(『ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜』)

「うるんでる 瞳にもう一度 あー 必ず幸せにする」(『Everlasting』)

 

のように、何かが失われたわけではなくもう一度繰り返して強調する、と言う使われ方もある。

 

さらに過去を断ち切り新たに始めるようなもう一度もある。

 

もう一度 僕が生れる為に 待ちつづけよう 眼をとじて」(『もう一度生れかわろう』)

 

しかし、「もう一度」のほとんどは"一度失われたものをもう一度取り戻したい"と言う意味で使われている。

 

さて、「戻れない=二度とない=一度だけ」そして「もう一度」と言う系譜を辿ってきたが、いかに財津作品において、"戻れないこと"が、重要な要素であるかがわかるであろう。

 

財津作品において、失われた過去は基本的に甘美なものであり、だからこそ戻れない事は苦しみや悲しみとなる。戻れない事が喜ばしい事のように歌われているのは『シェア』くらいではないだろうか。

 

「初めて見た時 永遠が始まった 大人のおとぎ話に 迷い込んだボクは 二度と昨日に戻れないさ」(『シェア』)

 

ここでは昨日に"戻れない"ことは、悲しみよりもむしろワクワクするような体験となっている。しかし、これを例外として戻れない事は、やはり苦しみ、悲しみ、切なさ、やりきれなさに結びつく。

 

では、この「戻れない」「帰れない」系をより深く理解するために、逆の「戻ってくる」「帰ってくる」系を検証しよう。

 

  • 「戻ってくる」「帰ってくる」

 

不可逆性、一回性を表す言葉として「戻らない」「帰らない」と言う言葉を辿ってきたが、それと対の組み合わせになるのは「戻ってくる」「帰ってくる」と言う言葉だ。この言葉は、「戻らない」系と比較すれば数は少ないものの、何度か歌われている。「戻ってくる」について考えるために、この言葉が登場する『君の季節』を取り上げる。

 

  • 異色作?『君の季節』

 

1982年のアルバム『2222年ピクニック』に収録された佳曲『君の季節』は、『心の旅』『せめて最終電車まで』『サボテンの花』『愛は戻れない』『I am the Editor (この映画のラストシーンは、ぼくにはつくれない)』などにつらなる、今まさに別れの時を迎えようとしている男女を描いた作品だ。

 

「自分で出した 言葉の罠に はまっては

笑い出す 怒り出す 泣きはじめる

眼の前の アイスクリーム 溶け始めたよ

別ればなしに アイスクリームは 似合わない

 

立ち上る 歩き出す ドアに立ちどまる

開かない 自動ドア 君はしかめ面

怒ったように 自動ドア 踏み直しても

故障なのか 自動ドア 君はあきらめる

 

土砂降りで 濡れた ぼくのシャツを

直ぐに 乾かしてあげると

優しく 気を効かせたつもりで

ガスの火の上 燃やしてしまったね

 

もどってくる 座りなおす プイと横を向く

口惜しそうな 顔つきで 大声でわめく

回りの人に恥ずかしい フルーツ・パーラー

別ればなしにフルーツ・パーラーは 似合わない」(『君の季節』)

 

言葉の罠にはまる、アイスクリームは似合わない、出ていくつもりが自動ドアが動かない、シャツを乾かすつもりが燃やしてしまう、フルーツ・パーラーは似合わない…この作品で描かれているのは、そうした失敗や齟齬が生み出すユーモラスな情景である。そして最後には円環的な季節の移り変わりがすべてを包み込んでゆく。

 

「今年も季節が 変わりゆく 君の季節が やってきた」(『君の季節』)

 

断言できるほどの根拠はないが、この二人は結局別れなかったのではないか?この作品で描かれるのはうまくハマっていない状況であり、別れる事にも失敗しているような気がする。そして何より「境界線」の踏み越えがなされていない。

 

  • 以前以後を隔てる境界線

 

財津作品における過去の状態からの訣別には、しばしば境界線が登場する。タイトルにズバリ「戻れない」が登場している『愛は戻れない』では

 

「この踏切り境に さよならしよう」(『愛は戻れない』)

 

と歌われている。ここでは、踏切を越えてしまえば二人は決定的に分かれてしまい、もう二度と愛は"戻ること"がない。ふたりの恋愛の終わりを表す境界線は踏切である。

(決定的ではなく一時的な別れではあるが『箱入り娘』でも「キン・コン・カン 踏切を境に 君とさよならをする」と踏切を境界線にした別れが歌われている)

 

ブログの第一回で『青春の影』について書いた際に触れた内部/外部構造もこれにあたり、『青春の影』では風の中と外、『Wake Up』では家の中から外(+汽車の外から中)、『サボテンの花』では部屋の中から外、が境界線の役割を果たす(この三作品では、境界線の踏み越えの際に涙が共通して登場する)。

 

『心の旅』『せめて最終電車まで』『I am the Editor』では、汽車/電車に乗ることがその境界線となっている。『Wake Up』について書いた第二回でも触れたように、汽車/電車が以前からの状態との訣別を表す例は多い。

 

「地下鉄の電車の中にあいつは消えていった」(『あいつが去った日』)

「動き出した 汽車にむかい その人は 娘に初めて おじぎをした ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」(『Wake Up』)

「靴音を響かせて 地下鉄に消えてゆく」(『もっと幸せに素直になれたら』)

「わかってる 愛は終わった 電車が君を乗せてゆく」(『逢えない愛』)

 

さて『君の季節』では「もどってくる」と言う、「戻れない」が基本的な形である財津的世界からすれば衝撃的な?言葉が登場している。

 

もどってくる 座りなおす プイと横を向く 口惜しそうな 顔つきで 大声でわめく」(『君の季節』)

 

なぜ戻ってくる事が出来たのか。それは、境界線の先へ行かなかったからだ。『君の季節』では自動ドアが境界線の役割を果たし、それが動かなかったために境界線を踏み越える事が出来なかった。そのために、"戻ってきた"が、もしこのドアの先に行っていれば、もう戻ってくることは出来なかったであろう。境界線の直前まで行きながら、境界線を踏み越えなかったがゆえに"戻ってくる"例として『君の季節』のほか『くちづけのネックレス』が挙げられる。

 

もどってきたよ 明日まで待てずに 忘れられない 君の笑顔が 最後の電車を 見過ごしてきた」(『くちづけのネックレス』)

 

ここにも電車が登場しているが、電車に乗ると言う境界線の踏み越えをしなかった為に戻ってくる事が可能になっている(この境界線も『箱入り娘』のように決定的な別れのものではなく一時的なものだが)。

 

反対に境界線がない帰るには、

 

「きれいなお花と子犬の太郎を乗せた ピカピカのリヤカーで お家へゆっくり帰ろう」(『おいらの気楽な商売』)

「あー 小さな体だったのに あー いつもけんかばかりして キズだらけで帰ってきてた ぼくが愛した犬 どんパ」(『ぼくが愛した犬どんパ』)

 

を、あげることが出来るだろう。どちらも犬が登場するのは面白い。

 

では、境界線を踏み越えた、あるいは境界線が明確に描かれていないにしても、かつての状態と訣別していることが明らかな場合、過去の状態へ戻ることは出来ないのだろうか。

 

  • 「帰ってくる」「戻ってくる」ことを可能とするのは

 

「戻れない」ことは悲しみであり、「戻る」ことは喜ばしい体験である。二度と戻れないはずの世界で、もう一度と願い、かつての状態へ「戻る」「帰る」ことは、不可能ではない。

 

財津作品において、その奇跡を可能とするのは「神様」や「宇宙人」のような"特別な存在"、そして"性(女性)"、"音楽"である。

 

「ロー・カウジーの ツノは1本だけ戻りました 罰としてかたっぽだけになったのです」(『仔牛のロー・カウジー』)

「貴方の髪に指を滑らせ 貴方の胸に顔を埋めれば 子供の頃に黙って佇んだ そよ風の中になぜか戻って行く」(『たしかな愛』)

「地球にやってきて 恋をした もうすぐ ぼくは帰る 遠いギャラクシー」(『恋のテレポーテイション』)

「古いメロディ 流すだけで あの日に 戻るよ」(『1962で抱きしめたい』)

 

『仔牛のロー・カウジー』では、ツノの短さを友達にからかわれた仔牛が、ツノを折ってしまったものの状況は改善されず、馬鹿にされるだけだった、と言う内容だが、それを見ていた「神様」の力でツノが一本だけ"戻る"奇跡が起こる。

 

『恋のテレポーテイション』では、「ぼくは帰る 遠いギャラクシー」と歌われているが、そのぼくは「魔法のような アー すごい力 君は知らない ぼくは 宇宙人」と、「魔法のようなすごい力」を使える「宇宙人」であると示されている。

 

『たしかな愛』では性愛(女性)が、『1962で抱きしめたい』は音楽が、"戻す"役割を担っている。

 

  • 魔法と生れ変り(もう一度)

 

「戻る」「帰る」と言う不可能を可能にする存在である"神"、"魔法が使える宇宙人"、"女性"、"音楽"。

この中で、女性と音楽も「魔法」と関連して、さらに「生れ変り」を可能とする存在として描かれたことがある。

 

「We believe in Magic たった一度しか ぼくらは生きてゆけないなら We believe in Magic そうさ何度でも 生まれかわるのさ 魔法を使って」(『We believe in Magic』)

「何もかも生まれ変わる君の魔法で」(『あなたのいる世界』)

 

1997年再結成時に発表された『We believe in Magic』における「Magic魔法」は、デビュー曲の『魔法の黄色い靴』を意識したものであると同時に、Lovin’ spoonfulの『Do you believe in magic』へのオマージュであろう。『Do you believe in magic』のMagicが音楽であることを考えれば、『We believe in Magic』の魔法も、音楽である事は、疑いようがない。

 

『あなたがいる世界』の君は女性であろう。

 

音楽と女性の魔法によって、生まれ変わると言う共通の構造を持っているこの二作品だが、生れ変りを可能とする音楽と女性は、先ほど「戻す」役割を担っていたのは非常に興味深い。

 

「戻す」事と、「生まれ変わる」事は、かなり近い所にある。どちらも、「二度とない=一度だけ」に抗う事だからである。

 

「生まれ変わる」と言う言葉も、しばしば歌われてきた。

 

「もう一度 僕が生れる為に 待ちつづけよう 眼をとじて」(『もう一度生れかわろう』)

『君のために生れかわろう

「何度生まれかわれと願ったろう たった一度の人生だから」(『生きるといふこと』)

生れ変りが 出来るなら あの娘の膝の 犬になりたい 果たせなかった ぼくの夢も 運んでゆきたい」(『8億光年の彼方へ』)

生まれ変われと 何度努力しても」(『Jodie』)

「We believe in Magic たった一度しか ぼくらは生きてゆけないなら We believe in Magic そうさ何度でも 生まれかわるのさ 魔法を使って」(『We believe in Magic』)

「何もかも生まれ変わる君の魔法で」(『あなたのいる世界』)

「愛のしずくに 生まれかわって 流れてゆくよ どこまでも ただ抱き合えば」(『窓の中のふたり』)

「裸足になれば自由なランナー生まれ変わるさ」(『run』)

『毎日だって生まれ変われる

 

また『アルバトロス』の

 

「君が復活(よみがえ)るとき また逢える きっと きっと」(『アルバトロス』)

 

も、生まれ変わりと見て良いかもしれない。

 

生まれ変わる事が一度しかない生への対抗策である事は、たとえば

 

「何度生まれかわれと願ったろう たった一度の人生だから」(『生きるといふこと』)

たった一度しか 僕らは生きて いけないなら 生まれ変わるのさ魔法をつかって」(『We believe in Magic』)

 

などに描かれている。本来不可能な、戻す、生まれ変わると言う奇跡を実現する力が魔法にあり、それを持っているのが音楽と性である。

 

音楽の「戻す」、「生まれ変わる」力について『財津和夫 人生はひとつ でも一度じゃない』(NHKザ・ヒューマン取材班」川上雄三)では

 

「だれでも青春時代に戻りたい。もし、もう一度人生をやり直せるなら、あの時代に戻りたいと思うものなんです。音楽はその願いを果たしてくれる一種のタイムマシーンのようなものかもしれません。」(48頁)

「時空を超えて過去や未来の自分になって書く。たとえば、僕自身も青春時代に戻って謝りたいなあと思う人がいます。実際にはそんなこと不可能なんですけど、詞であればそれができる。(…)それが生まれ変わるということであり、詞を書く価値だと思うんです」(139頁)

 

と語られている。

 

  • 「戻ること」いくらかの例外

 

「帰る」「戻る」が、悲しみと結びついて用いられている少数のケースにも触れておきたい。

 

たとえば『甲子園』では

 

「町に帰ってきたときは 迎える人影もなく 家に帰ればかあさんは 雨戸閉めて渋い顔」(『甲子園』)

 

ここでは、野球の試合に負けてしまい、帰郷した僕に町の皆は冷たくなっていたと言う悲しい現実が描かれている。これは屈辱的な帰郷である。『夕陽を追いかけて』に歌われている帰郷も、かつての情景の喪失が描かれているが、これらの「帰ってくること」は、むしろかつての夢のような高揚が「帰らない」事を痛感するために「帰ってくる」状況だ。夢・歓喜から現実に帰ってくると言うような使われ方をしている例は

 

「でもいつもラブシーンになると フィルムが切れてしまう カラカラと映写機 乾いた音を立てて 連れ戻す現実の世界へ」(『12才』)

「幸せの手前で いつも目が覚めて 退屈な日々にもどるよ」(『夢の鍵』)

「やがて別れが来るのは知っていた 生れた街へ帰る僕だから」(『卒業』)

 

も挙げることが出来るだろう。また、悲しみもありつつ、普遍的な安息を描いた「戻る」の使われ方もある。

 

「ねぇ どんなに輝き 美しいものも やがて枯れてゆく 自然に戻ってゆく」(『君もいつかはシルバーシート』)

 

  • 魔法

 

さて、最後に財津作品における魔法について。

 

「オー そうだよ 誰にも あげない魔法の靴さ」『魔法の黄色い靴』

「知らない国へ いってみたい 昔夢みた 魔法の靴で」(『人生ゲーム』)

「やっぱりあの娘は魔法使い」(『あの娘は魔法使い』)

「恋のテレポーテイション 魔法のような アー すごい力 君は知らない ぼくは 宇宙人」(『恋のテレポーテイション』)

「また 少しずつ 歩くだけ 魔法の靴で この道を」(『Well Mr.Good -bye』)

「君はマジシャン ぼくにいつも トキメキ くれるよ はじめて見た時から なぜか懐かしい」(『1962で抱きしめたい』)

「走るドライブウェイ 砂漠を縦断 とばせばまるで 魔法のじゅうたん」(『Mexicoへ青い空』)

「We believe in Magic たった一度しか ぼくらは生きてゆけないなら We believe in Magic そうさ何度でも 生まれかわるのさ 魔法を使って」(『We believe in Magic』)

「この心に魔法かけて 見知らぬ男と君は消えた」(『止まった時計』)

「何もかも生まれ変わる君の魔法で」(『あなたのいる世界』)

「僕は魔法を使ってた 使って生きていた でも それは逆だった ずっと僕が 魔法にかけられていたんだ」(『見えないものも信じられるさ 愛が信じられるなら』)

 

魔法はしばしば童心と結びつく。「昔夢みた 魔法の靴で」と歌われる『人生ゲーム』では、「みんなみんな 幼い頃に 色んな 大きな夢をみた」と子供時代を想起しているし、『We believe in Magic』でも「子供みたいに無邪気に生きよう」とある。

 

「魔法」が財津作品における重要キーワードの一つなのは、デビュー曲に登場する言葉であること、歌詞の中で何度も使われている言葉であることに加えて、前述したように「魔法」が財津的世界を貫く「戻れない=二度とない=一度だけ」と言う原則へ対抗する力をもっているためだ。「魔法」は、「戻ること」「帰ること」を可能とする唯一の方法なのである。そして、魔法の一部としての音楽にも触れてきた。

 

しかし、「戻る」ことは、通過儀礼的な観点においては罪である。大人になったものの子供としての時に憧れること、過去に戻りたいと願うことは、いつまでも大人になりきれない事を意味する。そしてそのことの罪に、財津さん自身が意識的である。『Private Moon』収録曲の『夢の鍵』の歌詞を引用する。

 

「どうしたらいい 忘れられない 子供のあの日 とりもどしたい 大人の罪のはじまりは 魔法を使うこと 終わった日々を追いかけて 魔法にすがること」(『夢の鍵』)

 

財津作品においての「魔法」は、ただ喜ばしい特別な力ではなく、通過儀礼的な観点から見れば、罪深いものでもあり、だからこそ「」なのかもしれない。

 

「戻らない」「帰らない」と「魔法」の関係について考えてきたが、最後に『魔法の黄色い靴』を振り返ると、ここでも「魔法」を持つものは境界線を越えて「帰る」力を持っていたことに思い当たり、驚いてしまう。

 

「大きな海を河を越えて 僕のちっちゃな ちっちゃな 家まで 帰ってくる」(『魔法の黄色い靴』)

『Wake Up』(財津和夫) 子供から大人に目覚める「今」 財津和夫作品における通過儀礼第二回


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チューリップ財津和夫作品における通過儀礼 第二回

 

前回は『青春の影』について書いた。

 

https://alabanda.hatenablog.com/entry/2023/11/09/141445

 

1974年に発表された『青春の影』、そして5年後にあたる1979年に発表された『Wake Up』。この2作品は、チューリップ、そしてソロ、それぞれの代表作とみなされる事が多い上に、どちらも結婚、より詳しく言えば、結婚を機にした子供から大人への通過儀礼的な移行を扱った作品と考えられる。

 

青春の影』が、子供としての終わりと、大人としての始まりを描きながら、やや前者に焦点が当てられ、その悲しみが強調されていたのに対して、『Wake Up』では、終わりの悲しみと、始まりの喜びがバランスよく配され、より円熟した視点を感じさせる。

 

さらに、「家」「道」「年老いたひと」「汽車」「戻れない」「靴」「今」など、財津作品にしばしば登場するモチーフが繰り返され、ある種の集大成的な作品と言えるであろう。

 

 

  • 『Wake Up』におこる4つの変化

 

『Wake Up』には、対照的なものへの移行が4つ描かれている。

 

「あなたが生まれた家」→「あなたが選んだあの人」

「学び舎への道」→「嫁ぐ道」

お辞儀に値しない存在→お辞儀に値する存在

「磨かれた革靴」→「洗いざらしのズック」

 

これを一つずつ見ていきたい。

 

  • 「あなたが生まれた家」から「あなたが選んだあの人」へ

 

この作品の主題は、もうこれで言い尽くされていると言えるかもしれない。『Wake Up』は

 

「涙を拭いたら行きなさい あなたが生まれた家をうしろに」

 

と始まり

 

「そんな心で愛してごらん あなたが選んだあの人を」

 

と終わる。

 

この「あなたが○○」で共通する言葉を始まりと終わりという対極に配置することで、このふたつのものが、正反対の性質であることを表現している。なぜ正反対なのか?それはこれが、子供と大人の、それぞれの象徴だから、と考えられる。

 

あなたが生まれた家」は今日までの、子供としての日々の象徴

あなたが選んだあの人」は今日からの、大人としての日々の象徴

 

この作品全体が、子供の象徴から出発し大人の象徴へとたどり着く構成になっている。

 

さらに、『青春の影』の回で触れたように、「あなたが生まれた家」の"内部から外部への移行"が、子供から大人への旅立ちになり、その際に"涙を断ち切る"振る舞いが描かれている点で、『青春の影』の「君」と共通する。『Wake Up』もまた、子供から大人への通過儀礼を扱った作品である。

 

  • 「学び舎への道」から「嫁ぐ道」へ

 

「白い吐息はずませて通ってた 学び舎への道 今日は嫁ぐ道」

 

「学び舎への道」から「嫁ぐ道」へ。これはそのまま、子供時代に学校へ通っていた道が、大人になる今日は嫁ぐ道に変わるという変化で、子供→大人への移行を象徴的に表現している。

 

青春の影』について書いた第一回で触れたが、財津作品には道を現在と過去の二重化して、時の経過を表現したものがある。

 

「あの海辺のみち いまは車のみち」(『夕陽を追いかけて』)

 

ここでは、時の経過による喪失感が全面に出ているが、『Wake Up』では、ノスタルジーとともに新しい始まりを感じさせる。

 

  • "お辞儀に値しない存在"から"お辞儀に値する存在"へ

 

「朝もやけむった 駅のホーム じっと見送る 年老いた人 動き出した 汽車にむかい その人は 娘に初めて おじぎをした ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」

 

『Wake Up』で、とりわけ印象深い部分だ。旅立つ娘に対して老いた親が初めてお辞儀をする。これにはふたつの理由が考えられる。1つ目は娘が自分と対等な大人になったため、2つ目はよその家の人間になったため、である。

 

親からすれば、今までの娘との関係は、大人(自分)対子供(娘)であり、下の立場である娘にお辞儀などしなかった。しかし、結婚し新しい人生に踏み出す娘はもう子供ではなくなる。そこで自分と娘は、大人(自分)対大人(娘)というふうに対等な関係になる。さらに、身内からよその家の人間になる。象徴的に「あなたが生まれた家」に属していた子供ではなく、「あなたが選んだあの人」と生活を共にする大人へと変わるため、娘にお辞儀をする。

 

そして、娘の立場からすれば、親から対等な大人として扱われた瞬間は、決定的に子供ではなくなった事を意味する。だからこそ「ずっとあなたを 守ってきた その愛にはもう もどれない」のである。

 

また、ここで「動き出した 汽車にむかい その人は 娘に初めて おじぎをした」と、汽車を"動き出させて"いるのだが、これはそのあとに来る「もどれない」を強調するためであろう。

 

出発前の汽車であれば、汽車に一度乗り込んだとしても、ホームにいる親の方に戻ることができる。しかし、汽車が出発してしまえば、汽車から降りて駅のホームにいる親のもとへ戻ることは出来なくなる。

 

つまりここで"戻れなさ"は二重になっている。汽車が出発したため、"汽車から降りてホームにいる親のもとに戻ることが出来ない"という意味と、親からお辞儀され大人として扱われたために、"守って貰える子供と言う立場に戻ることは出来ない"という意味と。

 

そして大人側に渡ったら、もう子供側に戻ることは出来ない。何かあったら戻ればいい、「生まれた家」の方へ帰ればいい、と考えていれば、それはいつまでも大人になりきれない事になる。

 

そのような、ある種の甘えを断ち切らせるためにも、親は娘に初めてお辞儀をしたのではないだろうか。

 

お辞儀という他人行儀な振る舞いに出たことは、娘をお辞儀に値する対等な大人として見做すと同時に、今までの守られていた立場、子供の気持ちのままでいてはいけないと言う覚悟を促す、静かな突き放しとも言える行為に思われる。

 

この旅立つ人間の"戻ってはいけない覚悟"は、『夕陽を追いかけて』にも見られる。

 

もどっちゃだめと 自分に言った 切り捨てたはずの ふるさとだから」(『夕陽を追いかけて』)

 

次回のブログで取り上げるが、「戻れない」という言葉は、初期から現在にかけて財津作品を貫く最重要ワードのひとつだが、それが最も効果的に表現されたのが『Wake Up』かもしれない。"戻れなさ"という抽象的な感覚を、汽車の出発、親からのお辞儀という具体的で映像的な情景により描ききっている。

 

ここで、戻れなさを強調する為に大きな役割を果たしている「汽車/電車」について少し考えてみたい。

 

  • 財津作品における汽車/電車に乗ること

 

汽車/電車に乗ることは、財津作品における通過儀礼的なテーマの、重要な構成要素であり、決定的な別れや、新しい世界への出発、そしてそれに伴う成長を演出するものとしてしばしば登場する。

 

「あーだから今夜だけは君を抱いていたい あー明日の今頃は僕は汽車の中」(『心の旅』)

 

は、財津作品の最も印象的な部分であろう。

 

財津作品ではじめて「汽車/電車」が登場したのは、1stアルバム『魔法の黄色い靴』の2曲目『あいつが去った日』だが、「大人」という言葉も、この曲が初登場であるのは興味深い。

 

「地下鉄の電車の中にあいつは消えていった」

「あーあ、あいつも 大人になった」(『あいつが去った日』)

 

夢にしがみつき、「大人」になれていない「僕」と対照的に、「大人」になっていった「あいつ」は、夢を捨てて、"電車に乗って"去ってゆく。子供状態と訣別していった「あいつ」が「電車」に乗って去ってゆくのは象徴的である。

 

  • 「磨かれた革靴」から「洗いざらしのズック」へ

 

「磨かれた革靴というよりも 洗いざらしの ズックのような そんな心で 愛してごらん あなたが選んだ あの人を」

 

青春の影』について書いた第一回でも触れたが、これは財津作品にしばしば見られる「恋と愛」の二元論を、これまた財津作品にしばしば登場する「靴」で表現した例であろう。

 

『Wake  Up』が収録されたアルバム『I need you and YOU』には『恋と愛の間』という曲がある。

 

「恋はいつも カラー写真 愛はいつも モノクロ写真 恋はいつも45回転 愛はいつも 33回転 恋はダイアリー 愛はヒストリー 恋は波の音 愛は海の音 恋はいつも蜜の味 愛はいつも いつも 水の味」(『恋と愛の間』)

 

これに即して言うなら、「恋は磨かれた革靴 愛は洗いざらしのズック」となる。

 

「磨かれた革靴」は、特別なもの、立派なものであり、「洗いざらしのズック」は、日常的なもの、平凡なものである。特別なものへの憧れではなく平凡なものの素晴らしさの発見という道のりは、精神的な意味で、子供から大人への成長と対応する。

 

  • 「今 愛がつきぬける」の「今」とは

 

「Wake Up Wake Up Wake  up Wake Up 今 愛がつきぬける あの人へ あの人へ」

 

「愛がつきぬける」という表現が印象的だが、その前にある「今」について考えたい。

 

「今 愛がつきぬける」という事は、逆に言うなら、"今まで"は愛が突き抜けなかった事になる。なぜ今までは愛が突き抜けなかったのに、今は愛が突き抜ける事が出来るのだろうか?

 

今まで愛が突き抜けなかった理由は、今この瞬間まで「あなたが生まれた家」に象徴される子供としての自分を断ち切れていなかったからだと私には思われる。

 

はじめに触れたように、『Wake Up』の世界は、「あなたが生まれた家」と「あなたが選んだあの人」を両極に持っている。

 

「あなたが生まれた家」は「今」までの子供時代の象徴であり、

「あなたが選んだあの人」は「今」からの大人としての日々の象徴になる。

 

そしてこの2つは両立しない。子供でありながら大人であることは出来ない。財津作品において、子供と大人とは截然と区別されている。財津さんの著書『ペンとカメラのへたのよこず記』(1984)によると

 

「若さと大人は繫がってはいない。若さと大人は太陽と地球くらい違う。」(48頁)

 

からだ。

 

「あなたが選んだあの人」のもとへ向かうためには、「あなたが生まれた家」を捨てなければならない。この作品に描かれる移行

 

「あなたが生まれた家」から「あなたが選んだあの人」へ

「学舎への道」から「嫁ぐ道」へ

お辞儀に値しない存在からお辞儀に値する存在へ

「磨かれた革靴」から「洗いざらしのズック」へ

 

これらは精神的な意味で、子供としての自分を終わらせて大人として生まれ変わる過程である。

 

一日の終わりの24時と一日の始まりの0時が重なり合う一瞬のように、子供としての終わりと、大人としての始まりが重なり合う一瞬が「今 愛が突き抜ける」の「今」になる。

 

子供としての自分を断ち切り、大人として生まれ変わる、大人として目覚める(Wake Up)「今」、大人側の象徴である「あなたが選んだあの人」に、ようやく愛が突き抜ける事が出来るようになった、と考えられる。

 

また、この「突き抜ける」と言う表現が、再度財津作品に現れるのは、1997年の再結成時に発表された『シェア』と言う楽曲だが、この作品にも「戻れない」と言う言葉が登場する。

 

「赤い赤いトキメキが Hi!Hi!Hi!Hi! 突き抜ける

「始めて見た時 永遠が始まった 大人のおとぎ話に 迷い込んだボクは 二度と昨日に戻れないさ」(『シェア』)

 

この作品でも、新しい始まり(「永遠が始まった」)は、以前の状態に「戻れない」ことと組み合わされている。

 

  • 財津作品における「今」の重要性

 

第一回の文章でも触れたように、代表的な財津作品は、『虹とスニーカーの頃』を除いて、「今」と言う言葉を効果的に用いている。これは偶然だろうか?

 

「あーだから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中」

「にぎやかだった街も は声を静めて なにをまっているのか なにをまっているのか」(『心の旅』)

「とてもとてもけわしく 細い道だったけど  君を 迎えにゆこう」

「自分の大きな夢を 追うことが までの僕の 仕事だったけど 君を幸せにする それこそが これからの僕の生きるしるし」

「君の家へつづく あの道を  足もとに たしかめて」

今日から君は ただの女 今日から僕は ただの男」(『青春の影』)

「春はもうすぐそこまで 恋は終わった」(『サボテンの花』)

今後よろしくお願いします 名刺がわりにこの歌を」(『切手のないおくりもの』)

「Wake Up Wake Up  愛が突き抜ける あの人へ あの人へ」(『Wake Up』)

 

これらの「今」は、ほとんど同じ使われ方をしている。ある状態の終わりと、別の状態の始まりが重なり合う「今」、今までと今からで人生が大きく変わるような転機に立った「今」である。

 

「にぎやかだった街も は声を静めて なにをまっているのか なにをまっているのか いつもいつのときでも 僕は忘れはしない 愛に終わりがあって 心の旅が始まる」(『心の旅』)

 

街全体が静かと言う事は夜中の情景と思われるが、夜中とは、夜と朝の間、一日の終わりと次の日の始まりが重なり合う瞬間だ。その終わりと始まりの重なり合う瞬間が「今」であり、後に続く「愛に終わりがあって心の旅が始まる」の終わりと始まりへと連鎖してゆく。

 

「君が育てたサボテンは小さな花を作った春はもうすぐそこまで 恋は終わった この長い冬が終わるまでに何かを見つけていきよう 何かを信じて生きてゆこう この冬が終わるまで」(『サボテンの花』)

 

「花を作った」「春はもうすぐそこまで」は、誕生、新しい"始まり"の予感であり、これが恋の"終わり"と対照になっている。

 

このような、"終わり"と"始まり"、その重なり合う瞬間、始まりをはらんだ終わりとしての「今」構造は、財津作品に頻繁に登場するが、子供の終わりと大人の始まりを描いた作品『今日と明日の間に』について最後に触れておきたい。

 

  • 『今日と明日の間に』

 

『今日と明日の間に』は、『Wake Up』と同年に発売されたアルバム『Someday Somewhere』収録曲だ。どちらも大人的な存在が、子供から大人への成長の時を迎えた若者を「あなた」と呼び、語りかける歌になっている。

 

この2曲は、「今」、それまでの日々に別れを告げる試練を通過することで、子供としての時が終わり、大人として生まれ変わる瞬間を描いている点において、財津的通過儀礼の典型的な作品である。

 

まず、『今日と明日の間に』でも、「今」と言う時が、一つの状態の終わりと新しい始まりの重なり合う瞬間としての「今」として描かれている。

 

「誰だって いつまでも 忘れられない恋があるけれど 誰だって その恋に 別れを告げるときがくる そうさ 今日から明日は 今日から明日は あなたが大人になるとき」

「失くした愛とすれちがいに 心に生まれた優しさを ポストに入れて おくりなさい 誰より先に あなたの心へ」(『今日と明日の間に』)

 

恋に別れを告げると言う試練によって、今日から明日の間に、子供としての時が終わり、大人としての時が始まる。

 

そして終わり(「失くした」)が、新しい始まり(「に生まれた優しさ」)につながる。

 

を失くした事で、に優しさが生まれると言う構造は『心の旅』における「に終りがあって の旅がはじまる」にも近い変化だ。

 

これら新しい始まりは無償で手に入るものではない。新しい始まりは、一つの状態を終わらせる試練に耐える事によって可能になる。

 

『Wake  up』の場合は、生まれた家から涙を拭いて旅立っていく事や、親からお辞儀されて守って貰える立場では居られなくなると痛感させられることが、通過儀礼的な子供時代との分離の役割を果たしている。

 

「今 愛がつきぬける」の「今」は、結婚の日が来たから自動的に「愛がつきぬける」と言うのではない。「あなたが生まれた家」に象徴される子供としての自分を断ち切る、その試練を突破した「あなた」が、大人として目覚めた力強い「今」であると思われる。

 

(次回は、財津作品における「帰らない」「戻らない」について書きます)

『青春の影』(チューリップ)と通過儀礼 財津和夫作品における通過儀礼第一回


青春の影 - YouTube

 

チューリップ財津和夫作品における通過儀礼 第一回

 

 

 

通過儀礼とは、人間がある状態から別の状態へと移行する際に行われる儀式である。入学式、卒業式、成人式、結婚式、葬式などがそれにあたるが、日常的なレベルで「この苦難を乗り越える事が、大人になるための通過儀礼だった」などともいう。

 

ここで重要なのは、以前の状態を脱して新しい状態に移行したあと、以前の状態に戻る事は基本的に許されないと言う事だ。「もう今までのようにはいられないこと」「今までの状態に戻ることは出来なくなること」そして「新しい状態で生きていかなければならないこと」を本人や周囲に痛感させるためにこの儀式があると言っても良いだろう。

 

卒業式はもう学生ではなくなる事を意識させ、成人式はもう子供ではなくなる事を意識させ、結婚式はもう独身ではなくなる事を意識させ、葬式は死んでしまった者はもう決して帰らない事を意識させる。

 

そして通過儀礼を経て一つの状態を決定的に終わらせたことによって、新しい状態へと生まれ変わる事が出来る。

 

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チューリップ財津和夫さんの歌を聞いていると、こうした通過儀礼的なテーマ、ある状態から別の状態への移行、子供から大人への成長、ある種の生まれ変わりを扱った作品がしばしば見られる事に気付く。また財津さんの書かれる歌詞に繰り返し登場する言葉、「生まれる/生まれ変わる」「帰らない/戻らない」「二度とない」「もう一度」も、こうした通過儀礼的なテーマと無縁ではないように思われる。

 

今日から財津和夫作品における通過儀礼と言うテーマで文章を書いてみたい。

 

  • 財津作品における「今」という言葉

 

財津さんの代表的な作品として挙げられる事が多いのは『心の旅』『青春の影』『サボテンの花』『切手のないおくりもの』『虹とスニーカーの頃』『Wake Up』あたりであろう。それら代表作はいずれもある種の通過儀礼を扱っていると見ることができる。さらに『虹とスニーカーの頃』を除いて、「今」と言う言葉が非常に印象的に用いられている。

 

「あーだから今夜だけは君を抱いていたい あー明日の今頃は僕は汽車の中」

「にぎやかだった街もは声を静めて 何を待っているのか なにを待っているのか」(『心の旅』)

「春はもうすぐそこまで 恋は終わった」(『サボテンの花』)

「知り合えたあなたに この歌を届けよう 今後よろしくお願いします 名刺がわりにこの歌を」(『切手のないおくりもの』)

「Wake  Up Wake  Up  愛がつきぬける あの人へ あの人へ」(『Wake  Up』)

 

第一回は、代表作の中で「今」と言う言葉が最も多く用いられている『青春の影』から話を始めたい。

 

 

青春の影』でまず気になるのが「今」と言う言葉が何度も登場している点だ。

 

「とてもとてもけわしく 細い道だったけど 今 君を 迎えにゆこう」

「自分の大きな夢を追うことが までの僕の 仕事だった」

「君の家へつづく あの道を 今 足元にたしかめて」

今日から君は ただの女」

今日から僕は ただの男」

 

「今日」も含めて5回も「今」と言う言葉が使われている。「今」と言う時にこれほど意識的なのは、この主人公がまさに「今」人生の大きな転換点に立っているからだ。では、どんな転換点か。

 

 

青春の影』ではふたつの変化が描かれている。

 

「自分の大きな夢を 追うことが 今までの僕の 仕事だったけど 君を幸せにする それこそが これからの僕の生きるしるし」

「愛を知ったために 涙がはこばれて 君のひとみをこぼれたとき 恋のよろこびは 愛のきびしさへの かけはしにすぎないと」

 

「僕」には「自分の大きな夢を追う」→「君を幸せにする」と言う変化

「君」には「恋のよろこび」→「愛のきびしさ」と言う変化

 

このふたつの変化によって描かれるのは、精神的な意味での子供から大人への成長であろう。それを以下に見ていきたい。

 

  • 自己愛から世界愛へ

 

1973年に発売されたライブ盤『LIVE !! ACT TULIP』のライナーノーツに、財津さんは印象的な言葉を残している。

 

「"自己愛から世界愛へ" それはガキから大人への出発点でもあるのです」

 

青春の影』発売の前年にこのような子供/大人観が、財津さんの中にあったことは興味深い。この発言を

「自己愛」(自分のためだけに生きる子供=自分の大きな夢を追う)

「世界愛」(自分以外のもののために生きる大人=君を幸せにする)

と考えれば、『青春の影』の歌詞と重なるように思われるからだ。

 

さらにこの曲が収録されたアルバム『Take Off』に収められた『悲しみはいつも』の歌詞も、似た心境の変化を扱っているように聴こえる。

 

「若い日 この人生は ぼくのものだと 信じてた でも今 すべての人は 心をよせるべきさ ぼくの人生は 君のものであり 君の人生は ぼくのものさ」(『悲しみはいつも』)

 

青春の影』の「僕」は、やや大袈裟に言えば、自己愛的時間(子供)の終わりと世界愛的時間(大人)の始まりに、「今」まさにたっているのではないか。

 

  • 恋のよろこびから愛のきびしさへ

 

「愛を知ったために 涙がはこばれて 君のひとみを こぼれたとき 恋のよろこびは 愛のきびしさへの かけはしに すぎないと ただ風の中に たたずんで 君はやがて みつけていった ただ風に 涙をあずけて 君は女になっていった」

 

「女になっていった」と言う事は、その前は女ではなかったことになる。では何から女になっていったのか。タイトルに「青春」と言う言葉が入っている以上、少女から、であろう。

 

「ただ風に 涙をあずけて 君は(少女から)女になっていった」

 

ここで少女から女(子供から大人)になるための試練の役割を果たしたのが「恋のよろこび」から「愛のきびしさ」への変化である。「恋のよろこび」の側にいた少女が、「愛のきびしさ」に直面して初めは涙するものの、最終的にはその涙を風にあずけていく(涙を置いていく、捨てていく)。涙は言ってみれば弱さや未熟さである。愛のきびしさで流した涙を捨てることは、愛のきびしさに涙した少女(子供)としての自分を捨てることを意味する。そして涙を捨て自身の弱さや未熟さを克服した事で、少女(子供)から女(大人)になっていった、と考えることができる。

 

また、「かけはし」とは陸と陸とをつなぐ過渡的なものであり、そこにとどまり続けることは出来ない。「恋のよろこび」が、一時的に通過するだけのやや不安定な橋であるのに対して、「愛のきびしさ」は陸であって、これはしばしば終わりの見えない広がりである。だからこそ一時的なものである「恋のよろこび」は「かけはしにすぎない」と低い評価が与えられている。

 

さて、ここで一つ疑問が生じる。「風に涙をあずけて」の、涙をあずけて行く「風」とは一体なんだろうか。『青春の影』における「風」を考える前に、財津作品における「風」について振り返ってみよう。

 

  • 財津作品における風の役割

 

財津作品にはよく「風」が登場する。財津さんの近著『じじぃは蜜の味』(2023)にも

 

風は素晴らしい。生きているここは動の世界であることを教えてくれる。長く生きても人生はますます不可解。でも風が木々の葉、散歩する犬の長毛、女性の髪などを揺らすのを眺めていると、"人生とは何"なんて答えを求める自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる(49頁)

 

と書かれているし、ファンクラブが「ゼファー(そよ風)クラブ」であることからも「風」に対する思い入れが感じられる。

 

歌詞に登場する「風」も、担う役割は多岐に渡っているが、ここではとりわけ印象深いものを挙げてみたい。まずエッセイにも描かれているように、女性の髪を揺らす、女性の魅力を強調するような描き方がある。

 

「真赤な車でいつもやってくる そよ風がよく似合う女の子」(『夢中さ君に』)

「長いにとかせ 夕暮れにいつも 外をながめてた 白い開き窓」(『愛のかたみ』)

が君のを 激しく揺らしてる」(『愛は戻れない』)

「リサ リサ 黒いを のなかにおよがせて」(『黒いのリサ』)

 

思いを運んでいくものとしての「風」もある。

 

よ 伝えておくれあの子に僕はこんなにも愛していると」(『よ』)

 

そして最も重要な使われ方は、ある種の時間感覚を伴った風だ。過去の時間を喚起するもの、時間の経過を感じさせるもの、などの風である。

 

「いつのまにか 月日は過ぎる 君は忘れていった君が愛した友を まわれよ まわれよ 君は車 風に身をまかせて」(『風車』)

すぎた日はすぎた日さ ふりかえる気はないけれど が吹く そんな時 ふと思い出す 君の涙」(『そんな時』)

夏が通りすぎ が流れて」(『セプテンバー』)

なつかしいあの日よ」(『私のアイドル』)

「どこかになくした愛ひとつ きのう流れたの中」(『なくした言葉』)

長い年月(つきひ)に流れ 僕らの子供も恋をして家を離れていった時小さなシワがまた一つ」(『僕がつくった愛のうた』)

「あー 今はひとり 街をさまよえば あー 夏の終わりを告ぐ が吹くだけ」(『風のメロディ』)

子供の頃には 毎日が長かった あの頃の思い出は 何もかも忘れた そうさ round round  round  round  round round round round 車のように僕はただ廻る」(『置いてきた日々』)

「髪をゆらす は 春を告げ ひとつの季節が 終わるよ」(『星空の伝言』)

月日に流されて いつか大人になっていた」(『Jack is a boy』)

想い出と同じが吹くなら」(『再会の日』)

遠い記憶 古い写真の奥」(『You are in the world』)

 

風が、過去や時間の経過と結びついて用いられている。今回は特に『丘に吹く風』の「風」に注目したい。

 

はいつしか歌をやめ まるで時間を止めたよう」(『丘に吹く風』)

 

ここでは風がやむことが時間の停止感と結びつく。逆に言えば風が流れていれば時間が流れていると感じる。そして「生きている動の世界」を感じさせてくれる事になる。財津さんは著書『ペンとカメラのへたのよこず記』(1984)でこうも書いている。

 

は一見無味だが、実は時間の壁を超えて吹いてくるのである。つまり、過去未来やあらゆる時空を、僕に運ぶことができる。だから僕は、性格をたがえた無限無数の風たちのまことに一大コレクターといえる」(28頁)

 

財津作品の風と時間に対する結びつきはここでも明らかである。では、『青春の影』の風とは何か。

 

  • 「風」は青春の時空?

 

「ただ風の中にたたずんで 君はやがて見つけていった ただ風に涙をあずけて 君は女になっていった」

 

ここで、「君」は「風の中」から外へと移動している。はじめに、「風の中にたたずんで」と「風の中」にいる状態が示される。そして、「風に涙をあずけて」と歌われる。普通「あずける」というのは、あずけた場所から、離れていかなければ使わない(例えば、実家に子供をあずけて職場へ向かった、などという。実家に子供をあずけて実家にいる、などとは言わない)。つまり、風に涙をあずけて、と言う事は風から離れていっているはずだ。

 

「風の中」にたたずんでいた状態から風に涙をあずけて"風の外"へと出ていった状態へと変化している。"風の中から外へ"出ていくとき、「涙をあずけて」「女になっていった」と言うことは、「風の中」にいた時はまだ女になる前、つまり少女だった事になる。

 

風の中にいた時は少女で、風の外に出ていったら女である事から考えて、この風は青春の時空を表していると思われる。

 

風=青春の中にいた時は少女

風=青春の外へと出ていった時は女

 

青春の影』の他に「風の中にたたずんで」いる状態が登場する歌がある。『たしかな愛』である。

 

「子供の頃に黙って佇んだ そよ風の中になぜか戻って行く」(『たしかな愛』)

 

そよ風の中に佇んでいたのが、子供であることは興味深い。『青春の影』で風の中に佇んでいるのも、女になっていく前の少女(子供)であるからだ。

 

『たしかな愛』では、風の中に戻って行くと歌われるが、『青春の影』では、風の中に戻ることはないであろう。「涙をあずけて」は、涙を取りにでも帰るようにきこえるが、ここで「あずけて」、歌唱では「ああずけて」と歌われているのは、風の中に「たたずんで」とかけるためだと思われる。

 

たぁだぁ風の中に たぁたぁずぅんで」

たぁだぁ風に涙を あぁあぁずぅけて」

 

  • 内部から外部へ

 

青春の影』の「風」が、青春の時空を表し、その"内部から外部への移行"と"涙をあずける(涙と訣別する)"ことによって、少女から女へ(子供から大人へ)の成長を描いている事に触れたが、これと似た現象は、『Wake Up』や、『サボテンの花』にも見られる。

 

「涙をふいたら 行きなさい あなたが生まれた 家をうしろに」(『Wake Up』)

 

青春の影』の「君」は、青春時代の象徴である「風」の"内部から外部へ"と「涙をあずけて」出ていく事で、少女から女になっていった。

 

『Wake Up』の「あなた」は、子供時代の象徴である「あなたが生まれた家」の"内部から外部へ"と「涙を拭いたら」旅立っていく事で、子供から大人への第一歩を踏み出した。

 

サボテンの花』も、"内部から外部への移行"と、その際の"涙"と言う共通項を持っている。

 

「思い出つまったこの部屋を 僕もでてゆこう ドアにカギをおろした時 なぜか涙がこぼれた」(『サボテンの花』)

 

「思い出つまったこの部屋」の"内部から外部へ"と出てゆき、その際に、「涙がこぼれた」。財津さんの著書『私のいらない』(2013)で、こんな記述がある。

 

サボテンの花』では、主人公が異性と出合ったことで、個(ひとり)からペアになり、色々あって再び個に戻る。でもそこには、以前の個とはちがう「成長した新しい個」が出現しているのです。(124頁)

 

以前とは違う成長した存在になり、新たな人生を歩みだす過程が"内部から外部へ"の移動によって象徴的に表されている。

 

  • 恋と愛

 

財津作品には「恋と愛」の対照がしばしば登場する。

 

の間』

「ぼくは思う いつもいつも は人を裏切るけれど 大事なことは いつもいつも は君を裏切りはしない」(『We Can Fly』)

「君にはだった ぼくにはいつでもそれはだった 海の深さより いつも君を愛していたよ」(『it WAS love』)

「壁のない はない 壁のある はない が時を止めるもの の日々は生まれない が時を刻むもの の日々は色褪せる」(『ロベリア』)

「まっ赤な花 水平線 は消えて が残る はたのし 南の島 は悲し 南の島」(『まっ赤な花と水平線』)

 

これらと比較して『青春の影』がより痛切に感じられるのは、他の作品のように恋と愛の性質の違いを描く事にとどまらず、一方からもう一方への移行を描き出し、そこに少女としての終わり、青春との訣別と言う通過儀礼的なテーマを重ねて描き出したためではないか、と私には思われる。

 

  • 「あの道」?

 

「君の家へつづく あの道を いま 足もとに たしかめて」

 

この歌詞に、少し疑問が生じる。今、立っている道をなぜ「あの道」といっているのか。今、そこにいるのなら「この道」のはずだ。「この道」が「あの道」と呼ばれるためには、以前にその道についての何かがなければならない。今、いる場所にあのを使う場合「学生時代よく来たあの店を訪ねてみると」とか「田舎に居た頃憧れていたあの東京にいる」とか、そんな風に過去に何かがあるように思われる。

 

これは、参照しているはずの『The Long and  Winding Road』(The Beatles)

 

「I've seen that road before」

「But still they lead me back to the long and winding road」(『The Long and Winding Road』)

 

の回帰感を念頭に置き、「あの道」になっていると思われるが、併せて思い起こされるのは、財津さんには道を現在と過去の二重に捉える感性があることだ。

 

「学び舎への道 今日は嫁ぐ道」(『Wake Up』)

 

ここでは、一つの道が過去と現在の二重に表現されている。また『夕陽を追いかけて』では

 

「あの海辺の道 いまは車の道」(『夕陽を追いかけて』)

 

と歌われている。「あの」と「いま」が登場するので、より興味深いが、ここでも一つの道が過去と現在の二重になっている。『Wake Up 』や『夕陽を追いかけて』の道は、過去と現在を対照的に描き、そこから時間の経過や変化を表現しているのに対して、『青春の影』の「君の家へつづく あの道を いま 足もとにたしかめて」では、過去と現在の対照は登場していない。しかし、この主人公には、思い出なり何らかの過去が存在しているのだと思われる。

 

  • 別れか結婚か?「今日から君はただの女 今日から僕はただの男」

 

この謎めいた言葉には、主にふたつの解釈がある。ひとつは、この男女が別れてしまった為に、相手が恋愛関係にある特別な存在から、"関係のない他人"になる、と言う解釈。そしてもうひとつは、男女が結婚し"平凡な何者でもない人"になる、と言う解釈である。

 

https://www.1242.com/radio/yagi/archives/377

 

↑での財津さんの発言によると、これは別れではなく、「小市民的なつつましい生き方」についての歌だという。つまり後者の、結婚して"平凡な何者でもない人"になる、と言う意味であろう。

 

私も、やはりそちらの解釈を取りたい。

 

まずはじめに触れたように、この作品で5回も使われる「今」を軸に考えてみる。「今日から僕はただの男」という事は、逆に言えば

"今日まで"の僕は、「ただの男」ではなかった、あるいは「ただの男」以外への可能性があった、と言う事になる。では今日まで何をしていたのか?

 

「自分の大きな夢を追う事が今までの僕の仕事だった」

 

つまり、「自分の大きな夢」を追っていた時は、「ただの男」ではない存在になれる可能性があった。しかし、それをやめる今、「ただの男」になることが確定する、と考えれば、「ただの男」の意味は「自分の大きな夢」と対照的なもの、つまり平凡な人間になる。

 

財津さんの言葉を思い出せば「小市民的な生き方」、この「市民」とは、「自分のきな夢」とまさに正反対の生き方を指すと思われる。

 

そしてもう一つ。「恋のよろこびは 愛のきびしさへの かけはしに すぎない」という言葉なのだが、前にも触れた通り、「恋のよろこび」を"橋"であるとすると、「愛のきびしさ」は"陸"になる。橋が「かけはしにすぎない」と、低い評価を与えられているのは、橋が過渡的なもの、短く一時的なもの、不安定なもの、だからだと思う。「愛のきびしさ」は、橋と対照的な陸であり、これはずっと続いている、どっしりとした広がりである。この恋と愛について

 

財津さんの著書『ぼくの法螺』(1981)によると

 

結婚相手が決まると、恋は終わります。恋は不安だからおもしろいものです。 でも、かわりに愛が生まれてきます。愛は安定するものだから素晴らしいものです。」(106頁)

 

と書かれている。結婚相手が決まると恋が終わり、愛が生まれてくる。"恋の不安と愛の安定"は、"かけはしの不安定と陸の安定"として、『青春の影』で表現されていたのであろう。橋のようにすぐ過ぎる恋は終わり、陸のようにずっと続く愛のきびしさの境地が始まったと考えた方が、別れてしまうより、私にはより感動的に思える。

 

  • 青春の光と影

 

もう一度、整理すると『青春の影』には、

「自分の大きな夢」や「恋のよろこび」に象徴される子供(少年/少女)的世界と、

「君を幸せにする」や「愛のきびしさ」に象徴される大人(男/女)的世界、

二つの世界があり、この子供側から大人側への移行が扱われている。

 

そう考えれば、「今日から君は ただの女」にしても、「恋のよろこび」に代表される青春の輝きを失った平凡な大人という意味だと思われる。また、「女」という言葉は、すでに一度「君は女になっていった」という形で使われているが、この「女」は、「男」の反対物としてではなく、「少女」の反対物として用いられているニュアンスが強いために、ただの女も「恋のよろこび」に代表される少女的青春的あり方の反対物と考えられる。

 

青春の影』の素晴らしさのひとつに、男性側の変化と覚悟だけでなく、女性側の変化と覚悟も描いている点があると思うのだが、男側が「今 君を 迎えにゆこう」と現在形なのに対して、女側の描写は「君は女になっていった」と過去形になっている。女性の方が若干先に"少女から女"になっていき、男の側は「今」、"少年から男"になる決意をした。そして先に大人になった「君」を、「今」大人になった「ぼく」が、迎えにゆく。

 

そして二人は決定的に、今日から自分の大きな夢や恋のよろこびに象徴される子供(少年/少女)的なあり方を捨て、何者でもない平凡な、ある意味では退屈な大人になる自分たちを受け入れる。そして子供としての時が終わる。つまり青春が終わる。つまり大人になる。

 

しかし「ただの女」「ただの男」に見える平凡な大人も、裏を返せば「愛のきびしさ」に耐え続ける人間、「きみを幸せにする」ために生きる人間という事になり、それは「恋のよろこび」や「自分の大きな夢」よりも、本当の尊さ、素晴らしさがあるのではないか。

 

このような、魅惑的なもの、特別なものよりも、平凡なもの、普通のものの方に、本当の偉大さがあるという主題は『Wake Up』に

 

磨かれた革靴というよりも 洗いざらしの ズックのような そんな心で 愛してごらん あなたが選んだ あの人を」(『Wake Up』)

 

と受け継がれてゆく。

 

(次回は『Wake Up』について書きます)